扇遊の「鼠穴」2006/12/06 08:09

 扇遊の「鼠穴」。 相続した田地田畑を茶屋酒で失くした弟・竹次郎が、江戸 に店を開いて成功した兄を頼って来る。 奉公させてくれと頼むのを、商いの 元をやるから、自分で商売しろという。 くれたのはたった三文。 兄貴は人 間じゃない鬼だと発奮した竹次郎、三文で俵の蓋・サンダラボッチを買い、ほ どいて銭「さし」を作って売り、次は俵を買ってわらじを作り、金が少し貯ま ると、朝は納豆、豆腐、生揚げ、がんもどき、昼は「きんちゃん甘いよ、う(茹) であずき」、夜は夜鳴きうどん、お稲荷さんを売って歩き、夜中になれば泥棒の 提灯持ち(「鈴ヶ森」の間抜けは、提灯を持って出ようとして、怒鳴られた)を やって、十両という金を残した。 十年後の今は深川蛤町に蔵が三つ(「みとま え」と言った)もある立派な店の主、女房も貰い、娘がいる。

 三文の元を返しに、別に二両も包んで、兄を訪う。 兄は「われに詫びなき ゃあいけねえ」「さぞや冷てえ兄だと思ったんだべえ」と言い、兄弟さかずきに なる。 「こんな旨い酒は飲んだことがない、泊まってけ」となる。 弟は泊 まる事はできない、風が強いので火事が心配だ、蔵の鼠穴が心配だというが、 兄は「もし焼けたら、おれの身代そっくりくれてやる」と、むりやり泊める。  お約束どおり、深川蛤町は火事になり、目塗りをした番頭が鼠穴だけは忘れ て、三つの蔵も丸焼け、竹次郎家は悲惨な運命をたどる。 兄はふたたび人間 の皮をかぶった畜生となる。

 「鼠穴」は、悲劇では終わらない。 どんでん返しがあって、「救い」がある。  だが、圧倒的に重苦しい噺だから、聴いた後に爽快な感じがしない。 噺のつ くりに原因があって、扇遊の力量によるものではないのだろう。

「うらなり」のモデル・梅木忠朴2006/12/07 07:58

 2日の土曜日、神田神保町の岩波セミナールームで、福澤諭吉協会の読書会 があった。 坂井達郎さんの「明治17~18年の『時事新報』を読む」という 本題については別に書く(そうした福沢関係の宿題が溜まっている)。 会が始 まる前、私のブログの『うらなり』の話を読んだ松崎欣一先生が、「うらなり」 のモデルは梅木忠朴(ちゅうぼく)という人物だと目されていると、教えてく ださった。 梅木忠朴については、先生の『三田演説会と慶應義塾系演説会』 (慶應義塾大学出版会)で読んだのだが、『うらなり』関係のことは、すっかり 忘れていた。 以下は、そのご本による。

 梅木忠朴は、安政5(1858)年愛媛県松山の生れ、松山中学を経て、明治10 (1878)年10月に18歳10ヶ月で慶應義塾に入った。 当時の松山中学(愛 媛県英学所に始まり、愛媛県変則中学北予学校、愛媛県立松山中学と名前は変 っているが)の校長だった慶應義塾出身の草間時福の影響が強かったらしい。  明治14年7月に慶應義塾を卒業すると、郵便報知新聞に入り、同時に法律専 修学校で学び、演説活動を行った。 やがて神戸に移り、自ら英人教師に英語 を学びながら、英語を教える教師の道に入る。 明治27年5月郷里松山に帰 り、母校県立尋常中学に奉職した。 夏目漱石がこの中学に在籍したのは、明 治28年から29年にかけてのことだから、梅木は同じ英語科教師として漱石と 机を並べたことになる。

梅木忠朴という人物2006/12/08 07:09

 そこで梅木忠朴がどんな人だったかということになる。 これからも松崎欣 一先生のご本による。

 松山中学出身の哲学者安倍能成は『我が生ひ立ち』の中に「英語の先生は梅 木忠朴といって、顔の大きな色の青い先生で、漱石の「坊ちゃん」のうらなり は、この先生から思いついたのじゃないかと思はれるくらゐ、ふだんは元気が ないのに、慶應義塾の出身で、教授中話が一度義塾のことになると、急に元気 が出て談論風発の概があった」「噂によると犬養だとか尾崎だとかの、塾での後 輩だったらしく、在学当時は大分将来を嘱望された人物だったといふが、その 英読といふのが実に日本的朗読であって(中略)実に退屈極まるものだった」 「この人は酒は中々いける口で、貧乏暮しの中にも、晩酌は盛んにやられたら しい」とある。

 梅木晩年の昭和3年頃、五男の標(こずえ)に夏目漱石の印象を語った回想 が記録されている。 外人教師の後任として赴任してきた漱石は、鼻下にひげ をたくわえた小柄な男で、黒ダブルの背広に蝶ネクタイ、江戸っ子のハイカラ 紳士だった。 一週間ばかりしても、あまり話し合うことがないので、いやに 江戸っ子風を吹かして生意気な青二才だと思った。 それというのも先輩(の 自分や同じ英語教師の西川忠太郎)を通り越した上席で、月給が自分よりも倍 も上、それどころか住田校長(タヌキとルビ、漱石が『坊つちやん』でこの校 長の名を温泉町の名にしたことに今、気づいた)よりも20円も高かった。

 この回想を紹介した新垣宏一氏(筆名・新開宏樹)『坊ちゃん―阿波のモデル たち―』(『徳島新聞』昭和48年6月連載分)には、慶應義塾を卒業した梅木 は本来そのまま東京に留まり、先輩である犬養毅や尾崎行雄の後に続き、さら に大隈重信について政官界に雄飛することを望んでいたのではないかと推定さ れること、しかし、明治14年の政変による大隈の下野とともに、その配下に あった多くの慶應義塾出身の俊秀たちが政官界を離れ、それを契機に将来の展 望を失って、やがて初志を断念して東京を去ったのであろうという、興味深い 分析もあるそうだ。

梅木忠朴のその後2006/12/09 06:57

 きょうは夏目漱石の命日、1916(大正5)年から90年になる。 今年は『坊 つちやん』100年でもある(初出は『ホトトギス』1906(明治39)年4月号)。

 梅木忠朴は、日向の延岡には行かなかった。 松山中学の英語教師を10年 間やり、明治37年に退職した。 漱石が去った後も、8年間は松山にいたこと になる。 ただ玉川町の先祖伝来の屋敷を全部飲みつくしたという大酒のみで、 他人の借金を背負ったりする人のよさもあって、屋敷を手放し、松山にいられ なくなって、また神戸へ移っている。 兵庫高等小学校や市立兵庫実業補習学 校に勤務した後、竹材貿易商社の長田大介商店で翻訳の仕事を続けた。 5人 の息子と2人の娘、孫に囲まれて平穏な晩年の日々を過し、昭和10年3月に 78歳で亡くなったという。

 この時、長男の憲一郎は神戸日日新聞の経済部長(『神戸又新日報』)か主筆 (『大阪毎日新聞』)だった。 梅木忠朴は、松山へ帰る前の神戸時代に同じ旧 松山藩士の娘西村ヨシと結婚(忠朴の帰郷を待ちわびた父・忠順が送ったとい う)、4人の息子が生れている。 その息子たちに、憲一郎(明治22年2月12 日生)、祭二郎(23年3月21日生)、政治郎(25年1月24日生)、馨(27年 5月17日生)と名づけた。 松崎欣一先生はここにも、帝国憲法発布や帝国議 会開設などを寿いでそれに因んで命名した以上に、梅木忠朴の政治の世界への 複雑な感慨があったことが窺われる、という。 明治14年の政変による東京 での環境の激変に加え、何とかして手元に呼び戻そうと英語教師の働き口を探 し、家督相続者としての帰郷を促す父・忠順の厳命によって、梅木忠朴は松山 に帰った。 梅木のはじめの神戸時代は、むしろ松山に帰ることへのいささか の抵抗としての滞留だと、松崎先生は推量している。

「街鉄の技手」と東京市電2006/12/10 08:21

 種村季弘さんの最後のエッセイ集『雨の日はソファで散歩』(筑摩書房)を読 んでいたら、『坊つちやん』が「街鉄の技手」になったことの能書きがあった(130 頁)。 当時の中学教師といえば、いまの大学講師並みだ、それが市電の運ちゃ んか車輌整備係になったとも読める。 しかし、実情はちがうという。 戦後 の昭和25年頃でさえ荒川線(王子電車)の乗務員たちは「沿線の女性がプレ ゼントしてくれるハンドルカバーを停車場ごとに取り替えた」というほどモテ た。 むかしからそうで「駅々にはハンドルカバーや手袋などの愛らしいプレ ゼントを持った娘たちが待ち構えていた。全盛時代には、電車屋さんといえば 縁談が殺到したという」と、『東京市電・東京都電』(ダイヤモンド社)にある そうだ。 いまの旅客機パイロットくらいの人気稼業だったのである、と種村 季弘さんは書いている。

 漱石が『坊つちやん』を『ホトトギス』に発表した明治39(1906)年4月 の2か月後、「街鉄」は東鉄(東京電車鉄道株式会社)に合併されて消滅して しまう。 「したがって坊っちゃんの街鉄在職期間はわずか二カ月」と、種村 さんは書いているけれど、これはおかしい。 『坊つちやん』には日清戦争戦 勝祝賀会が出てくるから、漱石が松山にいた明治28年の設定だ。 それはと もかく、東鉄の前身は明治15年開業の東京馬車鉄道株式会社。 馬力から電 力に変って市内電車が誕生した。 その後もうひとつの外濠線が出来、東鉄、 街鉄、外濠線の競合時代を経て、明治44年にその民間三社を東京市が買い上 げて、その名も市電となる。