慶應庭球部と、熊谷一弥、原田武一2012/08/07 01:55

 世界ランク17位の錦織圭(22)がロンドンオリンピックのテニス、男子シ ングルスで健闘し、88年ぶりにベスト8に残ったが、惜しくも92年ぶりの4 強進出は逃した。 というのは、よく報道されたけれど、88年、92年前の選 手が誰であったかに、言及するテレビも新聞もなかったように思う。 88年前 は、1924(大正13)年パリ大会の原田武一(たけいち)。 92年前は、1920 (大正9)年アントワープ大会で銀メダルを獲得した熊谷一弥(くまがいいち や)。 熊谷一弥も原田武一も、慶應義塾庭球部出身の選手だった。

 慶應で庭球部といえば、小泉信三さんを思う。 小泉信三さんが選手として プレーしたのは、110年前の1902(明治35)年から103年前の1909(明治 42)年までの7年間で、卒業後は部長として「庭球王国慶應」の基礎を築いた という。 熊谷、原田の頃は、「部長」だったのだろう。 慶應の庭球部は、 1899(明治32)年、前身である清遊ローンテニス倶楽部が誕生し、小泉さん が入る前年の1901(明治34)年に庭球部として体育会に加入した。 当時の 日本のテニスは軟式のみで、東京高商(一橋大)、高等師範(筑波大)が圧倒的 に強かった。 1904(明治37)年、慶應が初めて高商を破り、高商・高師時 代に終止符を打たせるのだが、その中心選手の一人が小泉信三さんだった。 こ の年、野球でも慶應・早稲田が当時全盛を誇った一高に勝ち、スポーツにおけ る私学勃興の年となった。

慶應庭球部の日本庭球界に対する最大の功績はいち早く硬式テニスをしたこ とである。 軟式テニスで実力を発揮しているのに今更変える必要があるのか という意見や、国内で対戦相手を得られない不便さを、押し切って硬式の採用 に踏み切ったからこそ、海外遠征による国際試合の経験も積むことができ、日 本のテニスはようやく世界の仲間入りを果すことができたのであった。 1913 (大正2)年のことで、その後の庭球部隆盛の礎となった (選手時代の小泉 信三さんは軟式だったわけである)。 1920(大正9)年のアントワープオリン ピックで銀メダルを獲得した熊谷一弥を始め、原田武一、山岸二郎、藤倉五郎、 隈丸次郎、石黒修など12名のデビスカップ選手が輩出し、日本庭球界に大き く貢献している。

 熊谷一弥は、慶應庭球部が1913(大正2)年2月19日に日本で最初に硬式 テニスの採用に踏み切った時の部員で、同年12月慶應のチームメートととも にフィリピン・マニラの東洋選手権に派遣された(日本人テニス選手初の海外 遠征)。 この時熊谷は、シングルス準決勝とダブルス決勝に進出し、単複とも 優勝した全米ランキング2位のビル・ジョンストンから大きな刺激を受けた。  1913(大正2)年、上海の極東選手権競技大会に柏尾誠一郎(東京高商卒)と ともに出場し、シングルス・ダブルスの両方で優勝した。 1916(大正5)年、 熊谷は三神八四郎(早稲田大学卒)とアメリカに遠征、ジョンストンを破るな どして注目され、二人は全米選手権に出場、日本人初の四大大会出場者となっ た。  慶應義塾大学卒業後、熊谷は三菱合資会社銀行部(現、三菱東京UFJ銀行) に入り、ニューヨーク駐在員となる。 1918(大正7)年の全米選手権でベス ト4に進出、翌年の全米ランキングではビル・ジョンストン、ビル・チルデン に次いで3位となる。 そして1920(大正9)年のアントワープ五輪でシング ルス・ダブルス(柏尾誠一郎とペア)とも銀メダルを獲得して、日本人のスポ ーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手となるのである。

 原田武一は、1917(大正6)年に慶應義塾大学予科に入学、庭球部に入り、 OB熊谷一弥の活躍に大きな刺激を受けた。 講義にはほとんど出席せず、テ ニスの練習と豪放な私生活の遊び(美貌の青年として女性に人気があった)で 有名だったという。 1923(大正12)年、前年始まった全日本テニス選手権 で初優勝、それが認められてハーバード大学「特別科」に留学する。 1924(大 正13)年、パリ五輪に日本代表選手として出場、ベスト8に残ったが、前回大 会で熊谷一弥が銀メダルを獲得していたため、「後退」とみなされた。 1925 (大正14)年から27(昭和2)年が原田の最盛期で、全米選手権やデビスカッ プ戦で活躍、1926(昭和元)年の全米ランキング3位、世界ランキング7位と なる。