「元祖 下町タワー」の設計者<等々力短信 第1038号 2012. 8.25.>2012/08/25 01:57

 東京スカイツリーが5月に開業し、隅田川対岸の浅草も賑わっているようだ が、その浅草のひょうたん池(大池の方)のほとりに「元祖 下町タワー」があ った。 「雲を凌ぐ高さ」の凌雲閣、浅草十二階である。 高さは避雷針も入 れて52メートル。 明治23(1890)年11月11日に開業式が行われた。 豪 商の福原庄七が起案、設計者は東京帝国大学のお雇い外国人ウイリアム・K・ バルトンだった。 バルトンは東京を含む主要都市の上下水道を設計した衛生 工学が専門の内務省の顧問技師で、凌雲閣の煉瓦造の部分は、イギリスの六角 か八角形の給水塔のデザインから来ているようだ。 当初の計画は最上層に屋 根をつけた十階建だったが、木造の眺望台を二階積み足して十二階になった。  画期的なことは日本初の電動乗客エレベーター(八階まで)が設置されたこと で、当時は欧米でも蒸気式か水圧式で、電動式はニューヨークでも前年登場し たばかりだった。 ただし、このエレベーター、最初からトラブル続きで、開 場から半年あまりの翌年5月27日、ついに操業停止に追い込まれてしまう。  バルトンは二階の積み足しも、エレベーターの設置にも、反対だった可能性が あるらしい。

 バルトンは写真の分野でも日本の近代化に貢献した。 それまでの暗室や大 荷物を必要とする湿板から簡便な乾板の技術を紹介指導し、日本写真会の創設 にも尽力した。 明治20(1887)年5月20日に31歳で来日した直後の8月 19日、アメリカから皆既日蝕の撮影に来たトッドの隊に参加、小川一眞、江崎 禮二ら日本の写真家たちとの交流が始まる。 凌雲閣がエレベーターの運転停 止を警視庁に言い渡されたあと、長い階段の登りを飽きさせない、それに代わ る別の呼び物として企画したのが、「百美人」の投票だった。 東京各所の芸妓 から百人を選び、小川一眞が写真に撮って閣内に掲げ、登覧者に誰がよいか投 票させる趣向である。 江崎禮二はこの企画との関係は不明だが、浅草奥山に 写場を所有し、後に凌雲閣社長になっている。 以上、2011年に増補新版の出 た細馬宏通さんの『浅草十二階 塔の眺めと〈近代〉のまなざし』(青土社)を 参考にした。

 ウイリアム・K・バルトンは、福沢諭吉の『西洋事情』外編に大きな影響を 与えた『政治経済学』の著者ジョン・ヒル・バートンの息子で、1860年代にス コットランドのエディンバラで育った。 3歳下で幼少時代を兄弟同様に過ご した親友が、シャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルだった。 コナン・ ドイルに訪日予定もあったが、明治32(1899)年のバルトンの急逝(43歳) で実現しなかったのは残念だ。

そのものを失った物語2012/08/25 01:59

 筒井康隆さんの小説『聖痕』は、周囲を騒がせずにおかないほど美しく生れ ついた葉月貴夫が、五歳の時、そのあまりの美しさのために、職工のように思 える暗緑色の作業服を着て、鼻の周囲だけが陥没したような平面的な顔の男に 襲われるところから、物語が始まる。 有り体に申せば、おちんちんとたまき んをちょん切られて、「すでに絶入している」ところを隣家の初老の主婦に発見 されるわけだ。

 たまたま檀一雄の『火宅の人』を読んでいたら、後半の「帰巣者(きそうし ゃ)」の章に、主人公桂一雄が愛人の女優矢島恵子への疑惑に惑溺して、「愛と はいったい何だ」と考えるところがあった。 恵子が馬賊あがりの土建業者に 『痴人の愛』のナオミのように可愛がられていたことがあるという噂話を聞か されたからだ。 そこに、こうあった。  「たとえば、アベラールとエロイーズだって、アベラールが決定的な瞬間に、 男の象徴を失わなかったならば、あのような激越な、持続性のある、観念の恋 愛にまで昂進しなかったろう。彼らは、そのものを失ったから、熱禱(示壽、 ねっとう)のような密封作用に、生涯をゆだねることができたともいえる。」

 「アベラールとエロイーズ」を、ご存知だろうか。 私は、知らなかった。  それについては、また、明日。