笠耐さんの「兄、檀一雄の思い出」2012/08/13 00:42

 発端は岩波書店の『図書』8月号、笠耐(りゅう・たえ)さんの「兄、檀一 雄の思い出」を読んだことだった。 笠耐さんは、文末に「物理学」とあるか ら物理学者なのだろう、と思った。 これを書くのにネットで検索すると、『物 理ポケットブック』(朝倉書店・2011年)という笠潤平(おそらくご子息)さ んとの共訳書があり、「前上智大学理工学部助教授」とあった。

 「兄、檀一雄の思い出」は、檀一雄句集『モガリ笛』の序句〈潮騒や磯の小 貝の狂ふまで〉で始まる。 句集は季節順に編まれていて、春の句は〈花散る やうづもるる淵に我もゐて〉〈母と会ふてうれしや窓に梨の花〉と続く、のだそ うだ。 そうか、檀一雄は俳句も詠んだんだ、というのが私の第一の感想だっ た。 この文章には、檀一雄が最も敬愛していた佐藤春夫を偲んだ〈面影は眼 交(まなかい)にあり樟若葉〉、亡くなる五日前の絶句〈モガリ笛いく夜もがら せ花ニ逢はん〉も出て来る。

 檀一雄が生母トミと11年ぶりに再会し、〈母と会ふてうれしや窓に梨の花〉 と詠んだ時、異父妹にあたる笠耐さんは、母トミのお腹の中にいたという。  昭和8(1933)年夏、一雄21歳、トミ41歳の時で、トミは高岩勘次郎と再婚 していた。 昭和10(1935)年勘次郎が亡くなると、一雄は福岡市平尾の高 岩家によく現れるようになり、耐さんや一歳下の弟を「天使」と呼んで可愛が ったという。 「春の日 うららか 光みち 蝶舞いて 仰げば 空も白く 散 る花びら」。 一雄が作詞・作曲した童謡「耐ちゃんの春」の、手書き水彩画入 りのカラフルな楽譜が残っているそうだ。

 姉と耐さんのお琴の先生の世話で、昭和17(1942)年一雄は最初の妻律子 と結婚、東京の石神井公園近くの借家に住み、翌年、太郎が生れた。 昭和19 (1944)年夏から陸軍報道班員として9か月あまり中国を彷徨し、やっと帰国 した一雄と、耐さんが福岡伊崎浦の律子の実家を訪ねた夜、空襲となり、腸結 核で病床にあった律子と満1歳半の太郎とともに、近くの浜の船陰に身を伏せ たことを、よく思い出すという。 その後、律子と太郎は、高岩家が疎開して いた三井郡松崎でしばらく過ごし、やがて一雄と糸島半島の海辺小田(こた) へ越して律子が亡くなり、松崎に戻る。 檀一雄を有名にした『リツ子・その 愛』『リツ子・その死』の律子である。

 児童文学者の与田準一の紹介で一雄がヨソ子と再婚する際も、耐さんは一雄 に連れられて、福岡県柳川市に近い瀬高の家を訪れた。 一雄とヨソ子は、松 崎の家で披露宴をし、由布院へ新婚旅行に出かけた。

 母トミは一雄と相談し、実弟と親族会社をつくり、福岡市綱場町に二階建の 家屋を新築、商会と美容室を始めた。 一雄は馴れない商売をしながら、劇団 珊瑚座を創めた。 会社は半年足らずで倒産、トミは松崎の屋敷田畑をはじめ 財産のほとんどを失い、福岡市平尾にあった家の離れだけが残り、そこへ移る。

 一雄一家が、昭和23(1948)年石神井に近い南田中に住み始めた時、14歳 の耐さんも上京して短期間同居、一雄の収入が増え一家が石神井公園の少し広 い家に移ると、母トミの高岩家が南田中の家に住むようになる。 耐さんだけ は昭和26(1951)年3月からの高校3年の一年間、一雄家に暮らし、多感な 時期だけに兄の影響を受けた。 合格した東京女子大英文科に進まず、自分で 密かに受験したお茶の水女子大理学部物理学科に入学した。 兄一雄にはよく 呼び出されて、出産と子育てに忙しいヨソ子姉に代わって、兄の口述筆記をし て手伝ったという。