檀、「ダン」という響きの人2012/08/16 01:54

 『檀』で、ヨソ子が語っている。 自分たちの関係は周囲からは奇異なもの に映ったろう。 怒っては許し、許してはまた怒るということを繰り返してい た。 戻っては出ていき、出ていっては戻ってくる。 だが、そのうち、ヨソ 子には張り詰めた拒絶の心が希薄になってきた。 どうしても檀を嫌いになれ なかった。 うまく説明できないが、檀は汚くなかったのだ。 檀は、他人の 悪口はいっさい言わなかった、陰口もきかなかったし、非難めいたことさえ滅 多に口にしなかった。 潔(いさぎよ)い人だった。

 檀と見合いをしたら、好感の抱ける相手で、颯爽とした姿をしていた。 そ して、そのときの颯爽とした印象は、死ぬまで変わらなかった。

 檀は、博多弁で「アセガル(焦がる)」人で、常に、自分がいる場所から抜け 出したいという思いがあった。 檀には、放浪の欲求と人恋しさが常に同居し ていた。 よく人からは、包み込むような微笑を浮かべていると言われる一方 で、近寄りがたい孤独さを感じると言われたりしたのも、その相反する欲求に よったのではないかという気がする。 確かに檀は、ヨソ子でさえドキッとす るような寂しい表情をすることがあった。

 昭和27(1952)年正月、捕鯨船で半年南氷洋に行った檀(40歳)からヨソ 子(30歳)に、遺書を兼ねたという長い手紙が来た。 「平常冗談にまぎらわ せて、口に出したことはありませんが、失意の時、大事の時、私よりも何層倍 も沈着であり、激励にみちているあなたの心意気を、私は大変尊敬しておりま す。それでなかったら、私は何度も自分の道を見迷ったろうとすら、考えるこ とがあります。私は持続的に女を愛することなど出来ない性分ですが、あなた の落ち着いた性格を畏れもし、深く愛してもおります。」「あなたにかりに恋人 が出来ても一向にさしつかえありませんよ。私が余り愉快に思うかどうかは別 として、誰でも自由に愛し、愛されるべきだからです。」「若し又、私に愛人が 出来た節も、あなたと離婚いたしません。私は別宅を構えてその方へ逃げてゆ くだけのことで、その際はあなたと子供達の充分な養育費を負担しましょう ね。」「もっとお互いに愛情の技巧に気をつけ、電車に乗る時には一緒にかけ、 腕を組んで野山を歩き、月や花を愛し合い、時には立って接吻を交わし、夜の 愛撫には慰め合い、いたわり合い、おたがいの喜びの源泉を深くし、お互いの よろこびを教え合い、ヤキモチを焼かず、深く信じ、事破れた時には率直に、 なつかしい昔の夫婦だったという立場から相談し合うことに致しましょう。」  「事」の起こる四年半前である。

 昭和39(1964)年の春、師である佐藤春夫が亡くなり、半年後に次郎が死 んだ。 その頃から、檀の体調が崩れてきた。 家の中で倒れたり、浅草の路 上で倒れたりした。 昭和46(1971)年、その前年ポルトガルのサンタ・ク ルスに居を構えた檀の所に滞在して帰国した人が「檀さんはアル中ですね」「ガ ンではないと思いますよ」と言った。 ヨソ子は、ポルトガルへ行こう、と決 心する。 外国など一度も行ったことがなかった。 必要な金を集め、無謀な ひとり旅に出る。

 『檀』は、檀ヨソ子の檀一雄への愛の書だった。 終章にこうある。 「あ なたにとって私とは何だったのか。私にとってあなたはすべてであったけれ ど。」