写楽、阿波徳島藩主蜂須賀重喜公説2021/10/25 07:03

 志摩泰子さんの随筆集『藍の色』「青の世界」には、徳島ご出身だけに東洲斎「写楽の素性は、阿波徳島藩のお抱え能役者斎藤十郎兵衛とする説が有力で、墓は寺町の一角、東光寺にあった」、とある。 さらに、「浄瑠璃「阿波鳴(なる)」で幼いおつるが、「ととさんの名は阿波の十郎兵衛」と言うくだりがある。十郎兵衛屋敷の館長さんにおたずねしたところ「斎藤十郎兵衛は写楽です。当時十郎兵衛という名が流行ったのでしょうね」と答えられた。」ともある。

 志摩泰子さんは「等々力短信」のよき読者で、毎号長文のお手紙を頂く。 その中に、東洲斎写楽の正体についての興味深い記述があったので、紹介しておきたい。 こういう流れがあった。 私が芳賀徹さんの追悼文を書いた頃、志摩さんに、阿波蜂須賀藩に秋田佐竹支藩から、十代藩主が来ていることと、関寛斎が徳島藩医だったことを、教えて頂いた。 そして芳賀徹さんが秋田蘭画について書かれたものを訊かれたので、こう答えた。 「『絵画の領分』(朝日新聞社)と『平賀源内』(朝日新聞社)だと思います。 江戸中期18世紀に蘭癖大名・佐竹曙山(しょざん)義敦、藩士小田野直武らが中心となって、鉱山改革のために招いた平賀源内から西洋画法を学び、制作した洋風学派ですね。 洋画の先駆として司馬江漢らにも影響を与えました。 小田野直武は、福沢が明治2年に復刻した杉田玄白の『蘭学事始』で知られる『解体新書』の人体図、骨格図、筋肉図などを『ターヘル・アナトミア』から写し取りました。 この書は、小田野直武の解剖図なくしては、成立しなかったと、いう人もいます。」

 それに対し、志摩さんは、十代阿波藩主となった重喜は、佐竹曙山義敦のおじ(4歳上)に当たり、東洲斎写楽は阿波藩お抱え能役者斎藤十郎兵衛でなく、秋田新田藩から養子に来た蜂須賀重喜公ではないかと、(徳島で)根強く囁かれているというのだ。 重喜は大坂商人との癒着の断ち切りや質素倹約など改革を進めるが、保守的気質の強い阿波の人々との波風が立ち、一揆やもめ事が多かった時期で、それが幕府の知るところとなり、大谷屋敷に蟄居させられ(32歳)、今度は打って変わったような派手な生活を送り、子供も多く作ったという。 その娘の一人が鷹司家に輿入れし関白夫人になっている。 それで重喜は大谷公と呼ばれるようになり、今度は贅沢三昧を幕府に咎められて、大谷別邸を跡形もなく壊し、富田屋敷に移り鬱々としていた生活を送っていた頃が、写楽の活動期に当るのと、阿波に来る前に描いた絵の生き生きとした迫力からして、写楽は重喜公ではないかと、密かに言われているのだそうだ。 息子の治昭がお咎めを受けては、藩が取潰しになるかもしれないと、絵師の名を明かされることは避けたのではないか、秋田蘭画の下地があるので(平賀源内と接点があったかと思わせる記述もある)、あり得ない話ではないかもしれない、と志摩さんはいう。

<等々力短信 第1148号>は、2021/10/25 07:05

<等々力短信 第1148号 2021(令和3).10.25.>真鍋淑郎さんと井上靖の詩は、10月11日にアップしました。10月11日をご覧ください。