奥州合戦と永福寺建立、「建築政治」2022/03/14 06:59

永福寺跡には、2018年6月23日に枇杷の会、鎌倉・二階堂界隈吟行で行き、<小人閑居日記 2018.6.28.>に、こう書いていた。

鎌倉駅から歩きの予定を変更して、「大塔宮」(鎌倉宮)行のバスで終点まで行く。 護良(もりなが・もりよし)親王を祀り、建武中興六百五十年記念などという説明の見える鎌倉宮に一礼して、永福寺(ようふくじ)跡へ。 鎌倉の山裾の茂りが半端でない、自然の活力に溢れている。 ところどころに、色とりどりの紫陽花が咲いて、雨に打たれている。 永福寺は鎌倉時代初期、源頼朝が奥州合戦で死んだ源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊を鎮め、冥福を祈るために建立した。 鎌倉中心部からは山蔭で、鬼門の方向ということなのだろうか。 中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して、苑池を中心とした浄土庭園の西岸に、二階大堂を中に南北に阿弥陀堂、薬師堂の翼廊が、調査で確認された。 長らくススキの生える湿地だったそうだが、国指定史跡となってから、土地の公有化、さらには復元整備工事が進められて、昨年6月、三つの建物の基壇(基礎)と苑池が復元され、公開されている。 永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている。

番組で永福寺について、発掘調査に関わった福田誠さんは、二階堂、薬師堂、阿弥陀堂を渡り廊下で結び、両側に池へ向かって釣殿のある寝殿造と説明した。 建築の粋を尽くし、裳階(もこし)、木製の基壇(毛越寺と同じ)が確認され、瓔珞(ようらく)、宝冠の一部が慶派の仏師の創作と似ていることが判った。 京の人の迎賓館、空間文化施設、宗教的。 井上さん…王朝の副都心のスタイル。 坂井さん…京への憧れ。 磯田さん…自前の武力、膝下軍事力を持っていないので、「いざ、鎌倉」で手下が集まって来るために、武家の棟梁としての自己演出がきわめて大事。 「建築政治」をやらなきゃならない。 それは徳川家光の頃(1650年)まで続いた、家綱になると火事で焼けた江戸城天守閣を再建しなくても保てるようになる。

津田梅子の父、仙<等々力短信 第1153号 2022(令和4).3.25.>2022/03/14 07:00

 広瀬すずが、津田梅子を演じたテレビ朝日のドラマ『津田梅子―お札になった留学生』(橋部敦子脚本・3月5日放送)を見た。 明治33(1900)年秋、36歳、女子英学塾(現、津田塾大学)開校の挨拶、「私は6歳の時、アメリカに渡り、11年間教育を受けて帰国しました。その時、留学で得た知識、経験を生かし、必ず恩返しをすると誓いました。あれから18年、ようやく未来の女性たちへの恩返しが出来る日が来ました。性別や立場が何であっても、幾つであっても、意志さえあれば、いつでも学べるのです。自分の頭で考え、自分自身で選択する力を付け、行動しましょう。当り前とか、常識に囚われないで下さい。自分の人生は、自分自身でしか決められないのです」。

明治4(1871)年の北海道開拓使の女子留学生募集には、なかなか応募する者がなく、維新の負け組、会津の家老山川家の捨松が、一旗揚げるべく留学、後に大山巌と結婚して、鹿鳴館などで活躍する話は聞いていた。 だが、6歳の津田梅子を10年間のアメリカ留学に送り出した父親のことは知らなかった。 ドラマでは(伊藤英明)、東京近郊に住み、農業などをやっていた。 梅子の父、仙も、冷や飯組の幕臣だった。 天保8(1837)年佐倉藩士の家に生まれ、藩校成徳書院で学び、藩主堀田正睦の洋学好きもあり、藩命でオランダ語、英語を学び、江戸の蘭学塾で洋学、砲術、森山栄之助に英語を学び、文久元(1861)年外国奉行の通訳に採用された。 慶応3(1867)年、小野友五郎の軍艦引取り交渉の遣米使節で、福沢諭吉、尺振八と三人が通訳として随行した。 津田仙はクリスチャン、明六社社員、初めて西洋野菜を育て、通信販売も初。

 『福澤諭吉書簡集』の索引で「津田仙」を探す。 第3巻、書簡番号606、明治14年9月19日の黒川剛宛に、その名が。 黒川剛は、仙台藩の江戸留守居役だった大童信太夫の別名、当時は宮城県牡鹿郡長、農業界の先覚者で学農社社長津田仙が、北海道出張の帰途、仙台や牡鹿郡石巻を訪れ、勧業場や種苗場などを見学した。 黒川が津田仙に託して福沢に贈った「もみ鯛」の礼状「未曽有の珍物、潔白雪の如し」とある。

 大童信太夫と福沢は、早くから緊密な関係にあり、横浜で発行された英字新聞の翻訳を仙台藩に買ってもらったり、上の二度目のアメリカ行きでは、ライフル銃の買い付けを頼まれたが果たせず、書籍を1150両分買って来た。 中津奥平家の嫡養子は宇和島藩伊達宗城の四男儀三郎だったので、仙台藩主の嫡養子に宗城の次男宗敦を推薦、福沢と大童は新藩主誕生に関わった。 戊辰戦争時、江戸にいた大童は佐幕派を助け、後に藩の内紛で責任を追及され黒川剛と改名し潜伏、福沢は、その赦免にも尽力した。

 ドラマで広瀬すずを風呂に入れ、鎖骨を見せたのは、テーマに反した。