漱石、虚子の船旅の別れと「欠伸指南」の句 ― 2022/08/18 07:03
以前、半藤一利さんの『漱石先生 大いに笑う』(講談社)を読んで、半藤さんが漱石の俳句のなかに、落語から来ているものはないかという探索しているのを書いたことがあった。 「漱石の句と落語」等々力短信 第750号(1996(平成8)年9月25日)、(漱石の句と落語<小人閑居日記 2016.11.1.>ブログ再録)
明治40年頃の「断片」にある句。
姫百合の筒の古びやずんど切
これは「京橋中橋加賀屋佐吉方から参じました」という番頭が「黄檗山錦明竹、ズンドの花活(はないけ)には遠州宗甫の銘がござります。 利休の茶杓、織部の香合、のんこの茶碗、古池や蛙飛び込む水の音、これは風羅坊正筆の掛け物、沢庵木庵隠元禅師張り交ぜの小屏風」と、早口の関西弁の言い立てをする「錦明竹」。
明治28年の作、
初夢や金も拾はず死にもせず
これは落語「芝浜」起源というのだった。
明治29年4月、漱石は松山におさらばして、熊本に居を移した。 中学校の異例の月給80円(住田「狸」校長は60円)の嘱託教員から、月俸100円の第五高等学校教授への栄転である。 もっとも、当時の官吏は製鑑費として一割天引きされたから、それが10円で90円。 松山からは、東京へ行く高浜虚子が船路を広島まで同行した。 このとき漱石が「愚陀(ぐだ)」という署名で、短冊に書いた句がある。
永き日や欠伸うつして別れ行く
半藤一利さんは、水川隆夫京都女子大教授の快著『漱石と落語』(彩流社刊)の説を採用して、これは「欠伸指南」だとする。 近所に欠伸指南所ができたというので、男が仲のいい友達に、そばにいるだけでいいから一緒についてきてくれと頼んで、稽古に行く。 さっそく初心者向きの夏の欠伸、大川の船遊びもいいが、一日やっていると、退屈で……、退屈で……、と出る欠伸を教わる。 ところが、いくらやっても途中で吉原の馴染の女ののろけに、脱線してしまい、どうにもものにならない。 この様子をずっと見物していた友達は、ばかばかしくなり、退屈し切って、「見ている俺の身にもなってみろ、こっちのほうがよっぽど退屈で……、退屈で……、(アーア、ア)ならねえ」。
師匠が「ああ、お連れの方はご器用だ。見てて覚えた」。
松根東洋城、寺田寅彦、小宮豊隆の『漱石俳句研究』(岩波書店刊)は、この句をなかなかの佳句だとほめているそうだ。 豊隆は「洒落というか飄逸というか、とにかく先生の持っている仙骨とでもいうようなものがでていて面白い」、寅彦は「かなり無造作にいってのけているようで、その実そう無造作でもないところが面白い」と。
明治40年頃の「断片」にある句。
姫百合の筒の古びやずんど切
これは「京橋中橋加賀屋佐吉方から参じました」という番頭が「黄檗山錦明竹、ズンドの花活(はないけ)には遠州宗甫の銘がござります。 利休の茶杓、織部の香合、のんこの茶碗、古池や蛙飛び込む水の音、これは風羅坊正筆の掛け物、沢庵木庵隠元禅師張り交ぜの小屏風」と、早口の関西弁の言い立てをする「錦明竹」。
明治28年の作、
初夢や金も拾はず死にもせず
これは落語「芝浜」起源というのだった。
明治29年4月、漱石は松山におさらばして、熊本に居を移した。 中学校の異例の月給80円(住田「狸」校長は60円)の嘱託教員から、月俸100円の第五高等学校教授への栄転である。 もっとも、当時の官吏は製鑑費として一割天引きされたから、それが10円で90円。 松山からは、東京へ行く高浜虚子が船路を広島まで同行した。 このとき漱石が「愚陀(ぐだ)」という署名で、短冊に書いた句がある。
永き日や欠伸うつして別れ行く
半藤一利さんは、水川隆夫京都女子大教授の快著『漱石と落語』(彩流社刊)の説を採用して、これは「欠伸指南」だとする。 近所に欠伸指南所ができたというので、男が仲のいい友達に、そばにいるだけでいいから一緒についてきてくれと頼んで、稽古に行く。 さっそく初心者向きの夏の欠伸、大川の船遊びもいいが、一日やっていると、退屈で……、退屈で……、と出る欠伸を教わる。 ところが、いくらやっても途中で吉原の馴染の女ののろけに、脱線してしまい、どうにもものにならない。 この様子をずっと見物していた友達は、ばかばかしくなり、退屈し切って、「見ている俺の身にもなってみろ、こっちのほうがよっぽど退屈で……、退屈で……、(アーア、ア)ならねえ」。
師匠が「ああ、お連れの方はご器用だ。見てて覚えた」。
松根東洋城、寺田寅彦、小宮豊隆の『漱石俳句研究』(岩波書店刊)は、この句をなかなかの佳句だとほめているそうだ。 豊隆は「洒落というか飄逸というか、とにかく先生の持っている仙骨とでもいうようなものがでていて面白い」、寅彦は「かなり無造作にいってのけているようで、その実そう無造作でもないところが面白い」と。
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