「戸越銀座」の隣町 ― 2022/09/15 07:12
私が強く反応したキーワードについて、いろいろ思い出してみたい。 まず「戸越銀座」から。 「等々力短信」第372号(1985(昭和60)年10月25日)に「場末の隣」という一文を綴った。 当時、私としては、うまく書けたほうだと思っていたので、全文を引く。
ボーッと生きてきて、44歳になった。 「世の中ついでに生きているような」人物というのが、落語に登場するたびに、身につまされる。 「モラトリアム人間」というのも、内容は知らないが、気になる言葉だ。 ボーッと暮して、それでも無事で来られたのは、つくづく有難いことだと思う。 ただ、この「ボーッ」には、深い訳がある。
結城昌治さんの『俳句つれづれ草』(朝日新聞社)で、結城さんが戸越銀座に生まれ育ったことを知った。 「家業は戸越銀座通りの米屋でした。東急池上線に戸越銀座という駅がありますが、下町でも山の手でもなくて、いかにも場末という呼び方がぴったりのごみごみした町です。」 ここを読んで、思わず苦笑してしまった。 池上線で五反田から、大崎広小路、戸越銀座ときて、次が荏原中延という駅だ。 昭和2年生まれの結城さんに後れること14年、私はこの中延という町で育った。 父は今も中延に住んでいる。
昭和20年5月24日未明、米軍側発表で525機というB29が来襲、渋谷、芝、荏原、目黒、大森、蒲田の各区が焼け野原になった大空襲があった。 結城さんは、入団一週間目の海軍武山海兵団から、身体検査の結果、帰郷命令を受けて帰宅していて、戸越銀座でこの空襲にあっている。 「私は防空壕に入っていた母と弟を呼び出すと、逃げ道をえらんでいる余裕などなく、逃げまどう人びとのうしろについていくのが精いっぱいです。まるで豪雨のように『ザザーッ』という音を立てて降ってくる焼夷弾は、空中で爆発して火のついた油を飛び散らすやつもあるし、地上で爆発すると炎が四方八方に燃え広がります。……どこをどうにげまわったのか無我夢中で、延山国民学校の校庭に避難した頃は夜が明けかかっていました。」 三年後、この延山小学校に、私が入学することになる。
この空襲の時、父は4歳の私をおぶい、8歳の兄の手を引き、母や祖母といっしょに戸越銀座と反対の馬込方向に逃げた。 途中で母は「もう、ここで置いていって下さい」と言ったという。 戸越、五反田方向へ避難した人の多くは焼け死んだそうだ。 「大ドブ」と呼んでいた幅2メートル位のドブ川から立会川に降りて、水を頭からかぶりながら一夜を過ごした。 焼けたと思った家は残っていた。 玄関の上がりがまちに私を降し、畳につもった灰の掃除や後片付けに数時間。 「紘二は?」と気づいてさがすと、玄関に降した時のままの格好で、「ボーッ」としていたという。
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