福沢諭吉と横井小楠の関わり ― 2023/08/22 07:12
福沢諭吉と横井小楠の関わりだが、『福澤諭吉事典』を索引から見ると、[人びと]「徳富蘇峰」の項に、蘇峰の父一敬が横井小楠の高弟で肥後実学党の中心人物だというのと、「松平慶永(春嶽)」の項に、文久期に三岡八郎や肥後から招いた横井小楠を抜擢・重用し、藩政改革を押し進めた、とあるだけで、直接の関係は見られない。
平山洋さんの『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房)は、副題が「文明の政治には六つの要訣あり」で、その要訣は慶應2(1866)年3月から6月にかけて執筆された『西洋事情』初編に述べられていた。 元治元(1864)年にできあがっていた未刊行の『西洋事情』は、江戸の各藩実学派によって次々と書写されたという。 外国の情勢はもとより、来たるべき日本の国の形はどうあるべきかを考える手引書として読まれるようになった。 そこには、政治や議会についても書かれていたから、「幕末にそんなことを考えたのは小楠だけだった」わけではなかったのだ。
そこで、改めて平山洋さんの『福澤諭吉』の索引から、「横井小楠」を見てみたら、二か所があった。 一つは、「五箇条の誓文と『西洋事情』」の小見出しのところ。 五箇条の誓文は諸侯会議派の参与由利公正(福井藩)と福岡孝弟(たかちか・土佐藩)が中心になって立案したもので、由利は実学者横井小楠の弟子、福岡は後藤象二郎や坂本龍馬とともに土佐藩実学派を牽引してきた人物で、やはり小楠の影響下にあった。 「諭吉は熊本藩の太田黒惟信(これのぶ)や牛島五一郎といった小楠門下生と交流していたので、議会政治と経済振興策を主眼とする小楠の思想は、諭吉の発想にも影響を与えた可能性がある。一方小楠の弟子筋としては、『西洋事情』が出版されたことで、それまで曖昧にしか把握できなかった議会や金融の仕組みを正確に理解できるようになったという利点があった。」
もう一つは、小見出し「日本全国にパブリック・スクールを作る」のところ。 「新政府は薩摩・長州・土佐・肥前の四藩が中心となって組織された寄り合い所帯であったばかりでなく、思想的な立場も尊王派と実学派がいがみ合いつつ同居しているという状況にあった。薩・土・肥は維新直前まで幕府と協同歩調をとっていた実学派指導の藩で、横井小楠の実学思想の影響下にあった熊本藩や福井藩の勢力をも与党としていた。五箇条の誓文の原案を練ったのはこのグループである。新政府実学派は西洋の技術や文明にも造詣が深く、諭吉の著作もよく読んでいて、彼に私淑していたとさえいってよいほどであった。」
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