長い巡礼を達成して得られるものは… ― 2023/09/06 07:02
巡礼路には「アルベルゲ」というユースホステルのような救護施設、宿泊施設(寝袋持参)が点在し、巡礼手帳「クレデシャル」を持つ人は誰でも泊めてくれる。 8ユーロから15ユーロ、または寄付のみで泊れる。 巡礼手帳は教区教会、救護施設、観光案内所で3ユーロほどで入手でき、救護施設に泊まると、公式スタンプ(無料)が押され、集めたスタンプが巡礼の証明になる。
「銀の道」というのは、ローマ遺跡が沢山残り小ローマといわれるメリダから、ローマ時代にセビリアまで銀が運ばれたことによるらしい。 巡礼路は、エストレマドゥーラ州の茶色一色の厳しい不毛の大地が続いている。 この辺りからは、大航海時代に新大陸をめざし莫大な富を持ち帰ったピサロなどのコンキスタドール(征服者)が出たそうだ。 アルカンタラ湖という人造湖があり、付近はイベリコ豚の産地で、樫の木のドングリで育ったその生ハムや、羊のチーズ、トルタ・デル・カサールはとても美味だという。
サラマンカは、ローマ時代から交易の中心で、13世紀からのスペイン最古のサラマンカ大学があり、16万冊の図書館を誇る、大航海時代には天文学などから綿密な航海計画が練られ、かのアメリカ大陸発見のコロンブスも学んだ。 サラマンカのマコール広場は、世界一美しい広場といわれ、トゥナという学生バンドが中世の衣装で演奏していた。
カンタブリア山脈を越え、アストゥリアス州に入ると、茶色の大地は一変して、緑あふるるグリーン・スペインとなる。 レオンの大聖堂のステンドグラスは世界一、(9月4日に書いた)古都オビエドのサン・サルバドール大聖堂のスダリオ(聖骸布)を経て、いよいよ最終の難関、険しい山道「原始の道」を越えていく。
番組では、巡礼者だったカップルが経営する寄付制の巡礼宿に泊った巡礼者たちが、配膳を手伝った食事と乾杯の前に、どこから来た誰か、なぜ巡礼に来たかを発表する。 苦労して歩いて来た者同士の、心を開いた交流があって、なごやかな雰囲気で、食事となる。
最終日、雲海の下に、聖地サンティアゴ・デ・コンテスポーラが見えて来る。 天候の変化、霧、山越えと、困難な巡礼路を歩いて来た、巡礼者たちを、所々にある黄色の矢印が導いて来た。 黄色の矢印の生みの親は、1980年代に巡礼路の復活を目指した、エリアス・バリーニャ神父だそうだ。 目前の町メリデは、蛸料理が名物で、茹でた蛸をぶつ切りにして、岩塩とオリーブオイルだけで食べるのが、美味しそうだ。
モンテ・デ・ゴッソの丘までくれば、あともう少し。 サンティアゴ・デ・コンテスポーラ大聖堂前のオブラドイロ広場では、大きなリュックを背負った巡礼者たちが、互いに無事に辿り着いたことを喜び合い、涙を流しながら抱き合っている。 この長い巡礼の道で、神と共にあることを実感し、人生をやり直すことや、人にやさしくすることを決意して…。
全国高校野球選手権大会と戦争 ― 2023/09/07 07:01
全国高校野球選手権大会、慶應義塾高校が107年ぶりの優勝、107年ぶりの優勝と報道された。 前回優勝は、1916(大正5)年の第2回大会という。 今回第105回大会なのに、107年ぶりの優勝というのは、計算が合わないではないか、ちょっと変だと思った。 大会は2023-1915+1=109回のはずだからだ。 調べると、計算が合わないのは、戦争で1942(昭和17)年~1945(昭和20)年の4回分がなかったためだった。
なお、1918(大正7)年の第4回大会は代表決定後に米騒動で、1941(昭和16)年の第27回は戦局深刻化のため文部省次官通達により地方大会半ばで、2020(令和)年の第102回大会はコロナ感染症流行のため、それぞれ中止になっているが、大会の数にはカウントされている。
1915(大正4)年の第1回大会は全国中等学校優勝野球大会として、大阪の豊中球場で開催され、前回慶應普通部が優勝した第2回大会も豊中球場だった。 第3回大会(1917(大正6)年)から第9回大会(1923(大正12)年)までは西宮市の鳴尾球場(鳴尾競馬場敷地内)で開催され、第10回大会(1924(大正13)年)から阪神甲子園球場での開催となった。 戦後復活した第28回大会(1946(昭和21)年)は、阪神甲子園球場がGHQ(進駐軍)に接収されていたため、阪急西宮球場で行われた。
1948(昭和23)年、学制改革に伴い、全国中等学校優勝野球大会から現在の全国高校野球選手権大会になった。
進駐軍に接収されていた野球場 ― 2023/09/08 06:52
戦後復活した全国中等学校優勝野球大会の第28回大会(1946(昭和21)年)は、阪神甲子園球場がGHQ(進駐軍)に接収されていたため、阪急西宮球場で行われた、というので思い出したのは、横浜球場がルー・ゲーリック球場だったことだ。 大学のクラスメイトで、横浜育ちのLINE友達に確認したら、日本のプロ野球が赤バット・川上、青バット・大下と湧いていた時代、横浜球場はルー・ゲーリック球場、野毛の映画館はマッカーサー劇場と改名され、横浜は港から街まで、進駐軍に取られて、「オフ・リミット」の看板だらけで、立ち止まることさえ出来なかった、と返信があった。
その時代、同じく接収されていた神宮球場は何という名前だったのか、わからなくて調べたことがあった。 インターネットで調べたら、「ステイトサイド・パーク」と呼ばれていたという。 辞書を見たらstateside は「アメリカの」という形容詞だそうで、なんと明治神宮のお膝元で「アメリカ球場」だったのである。 接収当時、東京六大学野球のリーグ戦は後楽園球場で行われていたらしい。
「ルー・ゲーリック球場」も「ステイトサイド・パーク」も、戦争直後の当時、ナイター設備があって、煌々と照明をして試合が行われていたというから、焼け跡や停電の続く中で、さぞ目立ったことだろう。
ニッポン放送のショウアップナイターで春風亭一之輔が「ジャイアンツ・ファン歴40年」と言っているけれど、私などは、赤バット・川上時代からのジャイアンツ・ファンだから、「ジャイアンツ・ファン歴77年」ということになる。
のちに監督になった水原茂がシベリア抑留から帰って来て、後楽園球場で「水原茂、ただいま帰って参りました!」と挨拶したのを見た記憶がある。 水原茂は、1949(昭和24)年7月20日に抑留されていたシベリアから舞鶴港に復員した。 その4日後の7月20日(日曜日)午前10時30分、東京駅に帰着、その足で後楽園球場へ行き、巨人-大映戦のダブルヘッダーの試合前に、姿を見せ、ファンに挨拶したのだった。
『打撃王』、ゲーリー・クーパーのルー・ゲーリッグ ― 2023/09/09 07:09
9月9日は亡くなった兄晋一の誕生日だ。 私が幼い頃から、プロ野球の試合や映画を観ているのは、5歳上の兄がいたおかげだった。
ゲーリー・クーパーがルー・ゲーリッグを演じた『打撃王』という映画を観た。 日本での封切は、昭和24(1949)年のことだから、私は小学校の1年生か2年生だった。 その映画のことを、兄が亡くなったちょうど一年後に、「等々力短信」第944号 2004(平成16)年10月25日に、「もつれ足」と題して書いていた。
等々力短信 第944号 2004(平成16)年10月25日 「もつれ足」
モリー先生の難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、別名をルー・ゲーリッグ病というのだそうだ。 子供の頃、ゲーリー・クーパーの『打撃王』という映画を観た。 クーパーの演じたルー・ゲーリッグが、打席に向かう途中、並べて置いてあるバットにつまずいて転び、スタンドから「もつれ足」というヤジが飛ぶ場面があった。 この「もつれ足」という字幕を、ずっと憶えていた。 『打撃王』の日本での封切は、昭和24(1949)年のことだから、私は小学校の1年生か2年生だった。 この年の秋、オドール監督ひきいるサンフランシスコ・シールズが来日し、その試合も後楽園球場で観た。
「もつれ足」がALSと関係があったのかどうか気になって、以前衛星放送でやったのを録画しておいた『打撃王』を見た。 原題は“The Pride of the Yankees”、1942年の作品で、サムエル・ゴールドウィンの製作、監督はサム・ウッド。 ベーブ・ルース自身がベーブ・ルース役で出演している、ルー・ゲーリッグの伝記映画だった。 学歴がないためよい職業に就けない両親(とくに母親)は、ルーが大学を出てエンジニアになった伯父のようになることを望む。 母はコロンビア大学の学生寮の賄いをしつつ、ルーをコロンビア大学に進学させる。 子供の頃から素晴しいバッターだったルーは、母親の病気を機に、ヤンキースと契約する。 マイナー・リーグのハートフォードに所属したのを、母が「ハーヴァード」と誤解したのをよいことに、プロ野球選手の道を歩む。
マイナー・リーグで首位打者となりヤンキースに昇格、ベンチを暖めていたが、シカゴで一塁手が打席で故障し、突然代打に指名される。 その時、慌ててベンチを出て、バットにつまずいて転ぶ。 「もつれ足」とヤジを飛ばすのが、のちのゲーリッグ夫人(テレサ・ライト)だった。 「もつれ足」はtanglefoot、BS2の字幕(池田宏)では「千鳥足」になっていた。 ALSにかかるのは、ずっと後で、それが引退の原因となる。
ルー・ゲーリッグは一塁手、4番打者(背番号4)として活躍、3番打者ベーブ・ルース(背番号3)とともに、ヤンキースの人気を高めた。 1939年まで17年の選手生活で、打率3割4分1厘、連続試合出場数2130回(“アイアン・ホース”と呼ばれた)、三冠王(1934)などの記録を残した。 これより先1920年にベーブ・ルースが3割7分6厘も打って三冠王になれなかったのは、今年イチローがその最多安打記録を塗り替えたジョージ・シスラーが4割7厘を打ったからだった(イチローはオドールも抜いた)。
コカ・コーラ、真っ白な紙とパン ― 2023/09/10 07:07
この「等々力短信」第944号の、昭和24(1949)年秋「オドール監督ひきいるサンフランシスコ・シールズが来日し、その試合も後楽園球場で観た。」というのを読んだ女性読者から反響のハガキが来た。 昭和24年のシールズ来日は、彼女にとっても印象深い“事件”だったというのだ。 大田区の小学校で、小学生招待の「くじ」に当り、野球の“ヤ”の字も知らないのに、あまりにも男子が「ゆずってくれ」というので、誰に渡すことも出来ずに出かけ、観戦バッジとコーラとライト・ブルーの表紙の真っ白な紙に印刷されたパンフレットを貰って帰ってきたのだそうだ。
コカ・コーラについては、私もよく憶えている。 前に「槍の笹崎」(等々力短信752号)というボクシングの話の中で、昭和27(1952)年5月19日の後楽園スタヂアム、白井義男がダド・マリノを破って、世界フライ級チャンピオンになった試合を観て、「日本人には、日米野球など、そういう機会だけに限って販売されたコカ・コーラの味が、格別だった」と書いている。 「真っ白な紙」というのも、よくわかる。 当時の小学生の使っていたノートなどは、ザラ紙に近い黄色いような紙だったのだ。 メモリアル・ホールと呼ばれていた両国の国技館で、相撲見物の進駐軍の兵隊の食べていたパンの白さも、印象的だった。
そういえば、日比谷の東京宝塚劇場は「アーニー・パイル劇場」だった。 アーニー・パイルは、「ワシントン・デイリー・ニュース」紙の記者から、第二次世界大戦の従軍記者となり、1944年にピューリッツァー賞も受賞したが、1945年4月に従軍先の沖縄伊江島で戦死した。 アメリカ軍統治時代の那覇に、琉球列島米軍政府と琉球政府の協力で「アーニー・パイル国際劇場」という映画館が建設されたことから、この劇場のある通りが「国際通り」と呼ばれるようになったのだそうだ。
(戦後のスポーツや大リーグ等について、小人閑居日記2006.3.20.~3.25.と、2008.2.5.~2.10.に関連の記述があります。)
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