「前世がない」上司のいる65歳 ― 2024/11/18 07:10
原田宗典さんの『おきざりにした悲しみは』(岩波書店)。 6月で65歳になった長坂誠は、京王線の中河原にあるオリエント食品の物流倉庫で、フォークリフト班の作業員だ。 中河原から府中まで二駅、府中からバスで武蔵小金井駅へ行き、北口でバスを乗り換えて小平市の外れ、家賃3万8千円のさくら荘21号室へ帰る。 2023年8月1日は暑い日、あんまり暑かったのでマスクを外しヘルメットを脱いで、煙草を吸いにいこうとした。 右膝がかくっと言って力が抜け、よろめいて額をぶつけて昏倒し、救急車で病院へ運ばれた。
六人部屋で横になっていると、5時を回った頃、班長の立林がやってきて、大丈夫か、の一言もなしに、えらい剣幕で怒鳴った。 「困る! 困るんだよなあ、長坂さん! 695日! 695日無事故できたんだよ! それを何! 頭なんか打って! 台無しじゃない!」 四十になったばかりで、正社員になるのが夢、仲間に厳しく、口を開けば文句ばかり言っている立林は、煙草禁止、明日は出てきてくれなくちゃあ困る、シフト組んでるんだから、と言って帰って行った。
「何だいありゃ? 気違いかい?」 隣のベッドの八十代のおじいさんが言った。 「ありゃあ、前世がないな」 「前世?」 「人間やるの、初めてなんだよ。前世はずうっと虫とか獣とか草とかでね。人間になったのは、今回が初めてなんだな。だからあんなふうなんだよ」 「なるほど。ありがとうございます。いい話を聞きました。何かこう、救われた感じがします。」
老人に年などを聞かれ、家族はない、一人者で、故郷(くに)の岡山に母親と妹がいると答えた。 「わしゃあ広島じゃ。そりゃあええが、帰る所があるいうんは、ありがたいことじゃが」 母光枝は89歳、妹のみどりは一つ年下、岡山市郊外の市営住宅で慎ましい暮らしをしているが、もう三年も帰省していない。 あそこが自分の帰る家なのかと思うと、胸が締め付けられるように感じる。 不甲斐ない自分が、嫌になる。
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