京都は原爆の第一目標、そして除外 ― 2006/05/09 06:40
吉田守男さんの探究は、センセーショナルな題名「京都に原爆を投下せよ」 の問題に移る。 1945(昭和20)年5月10日と11日、アメリカ・ニューメキシ コ州ロス・アラモスのオッペンハイマー博士の執務室で行われた、科学者と軍 人十数人の秘密会議で、8月初めに投下予定の二発の原子爆弾の目標都市(二つ は予備)として、AA級に京都と広島、A級に横浜と小倉造兵廠が選ばれた。 原 爆の被害と区別するために、また原爆を効率よく使用するために、今までの爆 撃でまだ損害をこうむっていない重要都市が選ばれた。 京都はその条件に合 い、日本人にとって宗教的、文化的意義をもった重要都市であり、この破壊が 最大の心理的ショックを与えることができ、その抗戦意欲を挫折させるのに役 立つだろう、もっとも理想的な攻撃目標だった。 この時、検討された京都・ 広島・新潟には、原爆の威力を測定するために、他のあらゆる形式の爆撃も禁 止するワシントンからの秘密指令が出されていた(アメリカの戦略爆撃調査団 報告書)。
「マンハッタン計画」の総指揮者、原爆開発と投下の現場責任者はレスリー・ グローブス陸軍少将だった。 5月30日、文官であるヘンリー・スチムソン陸 軍長官は、グローブスに京都への原爆投下反対を表明した。 京都への原爆投 下によって起こる残酷な事態によって、日本人との和解が戦後長期間不可能に なり、戦後世界で、日本がアメリカ側につくか、ソ連側につくかの問題にかか わると、考えたからだ。 6月14日、目標は小倉・広島・新潟となる。 7月 3日、軍部の巻き返しで、京都が復活。 7月21日、ポツダム会談に随行して いたスチムソンがそれを知り、反対、急遽長崎を加え、目標都市は小倉・広島・ 新潟・長崎となった。 そして7月25日、正式の原爆投下命令が出される。 吉田守男さんは、京都除外のヘンリー・スチムソン恩人説を、その政策決定の 第一義的要因はその国際情勢判断にあり、芸術文化都市の顧慮ではないと、否 定する。 それに原爆投下計画自体がスチムソン長官の下で進められ、京都は 三発目以降の目標として密かに温存されていた、とも指摘している。
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