現地で悟ったバルトン来日の理由 ― 2006/05/17 07:41
「現地に行って調べてみなければ分からないことがある」と、稲場紀久雄教 授はW・K・バルトンについてのイギリスでの調査で、実感されたそうだ。 そ れは、稲場教授の著書『都市の医師』を読んだ私が「等々力短信」853号に「フ ライング・スコッツマン」と題して書いたこととも関連していた。 W・K・ バルトンの来日は、衛生局の官吏、永井久一郎(永井荷風の父)との出会いが一 つの契機だったが、真の理由は英国社会の持つ階級構造にあった、つまりバル トンが、イングランドに征服されたスコットランド出身であるうえ、学歴が学 者として一流でないと思われるため、厳しい階級社会イギリスは、自分の能力 を思い切り発揮ではなかったに違いない、という見解だった。
稲場教授は、現地滞在中に、この考えが変わった、という。 講演概要にこ うある。
「スコットランドには自主独立の気風がみなぎっていた。国旗も国家も貨幣も 固有のものである。歴史的にもイングランドに併合されたわけではなかった。 文化技術面でもイングランドにひけをとらない。
バルトンを日本に導いた直接の要因は、育った環境と父の著書『ザ・スコッ ツ・アブロード(海外のスコットランド人)』ではなかったか。青年達の海外雄 飛の願望に火を点したのは、『ザ・スコッツ・アブロード』だったと言われる。
さらに、明治維新の若き志士達を支援したトマス・グラヴァーや日本の灯台 の父と仰がれるリチャード・ブラントンは、父の故郷アバディーン及びその近 郊の人である。バルトンが彼らの活躍を知っていた可能性もある。また、1872 年の秋、エジンバラを訪れた岩倉遣外使節団一行の姿を記憶に刻んでいたかも しれない。」
1872年、エジンバラ・カレジエイト・スクールに在学中の16歳のバルトン が、学校と同じ目抜き通りにあるホテルに泊まった岩倉遣外使節団一行の日本 人を眺めていた姿を、教授は想像する。 学歴についても、当時のイギリスで は、大学に「工学」はなく、それは徒弟として修業する時代で、バルトンもそ うした経験を積んだのだった。
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