日中戦争はなぜ拡大したのか2006/08/18 07:48

 13日放送のNHKスペシャル「日中戦争」は、立花隆さんがちゃんと知ろう としたという「日本が戦争に巻き込まれていった頃の時代」を扱っていた。 番 組は1937(昭和12)年7月7日に盧溝橋事件が起こったその橋の上で、中国の 若い人たちが「国恥の日」を学ぼう、忘れまい、と叫んでいるところから始ま った。 盧溝橋事件は、8年に及ぶ日中戦争の始まりだった。

 当初、「即戦即決」(松井石根(いわね)中国派遣軍司令官の日誌)、満州事変(1931 年9月)の経験から、大軍で威嚇すれば、中国はすぐに屈服すると考え、近衛文 麿首相も「不拡大方針」だったのに、なぜ戦争は拡大したのか。 番組は今年 の3月から公開の始まった蒋介石の日記などから、その事情を探る。 満州事 変から6年、蒋介石の中国は軍閥との戦いに勝ち、軍の整備を進めてきた。 密 かにヒットラーのドイツ(日本は防共協定を結んでいたのだが)と結び、最新兵 器を大量に輸入し、ファルケンハウゼン将軍をリーダーとする軍事顧問団も受 け入れていた。 8月上海に戦火が拡大、士気が高く、徹底抗戦の構えを見せ る中国兵に、日本軍は多数の戦死者を出す苦戦を強いられる。 上海郊外には 歩兵部隊育成の第一人者ファルケンハウゼンの指導した防御陣地がつくられて おり、当時世界最高水準のチェコ製のZB26軽機関銃の「パラパラパラパンパ ンパン」という音は日本兵にとって地獄の音だった。 この戦いに投入された 金沢の第九師団歩兵第七連隊は、初めの二週間で2500人の内、450人が戦死、 第九師団はクリークでの激戦により1か月で1万の兵を失った。

 蒋介石はまた、国際都市上海で戦って、その実態を世界に見せ、国際社会の 支持を引き出そうと考えていた。 戦いの始まる一年前の日記には、もう「ア ジアの問題は西欧諸国と共同して解決する。そして侵略者・日本(倭寇)を処置 する」と書いているという。

 10月20日、東京の参謀本部は、増援部隊の派遣を決定する。 但し、蘇州 と嘉興を結んだ線(制令線)を越えて進軍することは禁じた。 この戦いについ て日本政府はずっと、宣戦布告をして国際法上の戦争にすることを躊躇してい た。 燃料や鉄鋼始め輸入品の多いアメリカが、中立法を発動して、輸出を禁 止することを恐れたからだ。 戦争ではない、日中二国間の上海事変、支那事 変と言い続け、それが重大な問題を生むことになる。