現地の独走と追認、そして南京事件2006/08/20 07:15

 なぜ日中戦争は拡大したのか(「NHKスペシャル」8/13)、に戻る。 満州事 変でもそうだったが、参謀本部の指令を無視して、現地の軍が独走し、東京が それを追認する局面が、繰り返された。 上海周辺で膠着状態になっていた戦 況は、日本軍が1937(昭和12)年11月5日杭州湾に7万の兵を上陸させたこと で、形勢は日本に有利になる。 蒋介石は、上海の欧米租界の対岸にある四行(し こう)倉庫を死守する激しい攻防戦を仕掛け、欧米のメディアにそれを撮影した フィルムを報道させることで、各国の日本への経済制裁を引き出そうとする。  しかし11月のブリュッセル会議は、蒋介石の思惑通りには進まなかった。 米 英は経済制裁を発動せず、蒋介石は四行倉庫でドイツ式の精鋭部隊を失った。  11月上旬、上海を陥落させた日本軍は追撃を開始、松井石根司令官は11月22 日参謀本部に、「制令線」の突破と南京進撃を行うとの電報を寄せる。 陸軍参 謀本部作戦部長下村定がこれに呼応、11月24日の御前会議で、独断で、南京 その他も攻撃することも想定と発言する。 下村は叱責されただけで、現地軍 は独断で南京追撃を開始、12月1日上層部はこれを追認する。 蒋介石は南京 死守を決意、11月30日ソ連に参戦をうながすが、スターリンは中国への武器 供与を決めただけで、12月5日参戦は二か月後の最高会議で決定すると回答し てきた。 ドイツ軍の動向に配慮して、動かなかったのだ。

 12月7日、蒋介石は南京防衛軍10万を残し、戦線建て直しのため南京を離 れる。 幹部やドイツの軍事顧問団も城外に出た。 12月13日、南京陥落。  入場した日本兵は、たくさんの正規兵の軍服や兵器が捨てられているのを見た。  民間人の衣服(便衣)に着がえたことが考えられ、日本軍は極度の緊張を強いら れて、「青壮年は凡て逮捕監禁」という指令が出た。 第七連隊は、掃討活動を 開始、それは難民区域にも及んだ。 日本は捕虜を人道的に扱うというハーグ 陸戦法規を批准していた。 しかし、宣戦布告がなく、国際法上の戦争として こなかった、この事変では、捕虜の扱いを定めた国際法が十分に機能する状況 になかった。 「逮捕監禁」が「捕捉殲滅」の掃討命令に変わった。 二日後 には皇族も参加する入城式典(12月17日)も迫っていた。 長江のほとりで、 虐殺といわれても仕方のないことが行われたのである。 アメリカ人宣教師ジ ョン・マギーがその時の状況を撮影していた。 そのフィルムは、30通の報告 書とともに南京駐在のドイツ外交官の手で本国に送られたが、日本に傾斜して いたヒットラーは動かなかった。 そのフィルムの一本がアメリカに行き、メ ディアも注目、『ライフ』1938年5月号にも出て、アメリカ市民は日本への非 難を強めたのだ。 1939年、アメリカ政府は滞日貿易制限を開始する。