長岡を訪ねた福澤協会の旅2008/10/14 07:24

 珍しく4日連続で行事があって、9日は「夏潮」渋谷句会、10日は昭和39 年卒経済学部U組クラス会、11日・12日は福澤諭吉協会の「史蹟見学会」と 称する旅行だった。 どれも書きたいことは沢山あるのだけれど、とりあえず、 新潟県の長岡を中心に小千谷・柏崎・出雲崎を訪ねた旅行の話をしたい。

 なぜ長岡か。 初期の慶應義塾にどこからの塾生が多かったかというと、ま ず中津、紀州、そして長岡だったのだ。 長岡は、戊辰戦争での荒廃から立ち 直るために、「米百俵」のエピソードで知られる教育による人材育成を進めたの であった。 学校を設立し、東京にも多くの学生を送った。 長岡出身で明治 3年6月に入塾し、5年暮には早くも英学の教員となり、後には徳島慶應義塾 の校長も務めた城泉太郎の回想によると、藤野善蔵、芦野巻蔵、小林寛六郎(「米 百俵」の小林虎三郎の弟)、小林雄七郎(同)、秋山恒太郎、名児耶六都、外山 修造、栗山東吾、牧野鍛冶之助、稲垣銀治、三島徳蔵、曽根大太郎、牧野鋭橘 (藩主)、中島武藤太、高野弥次郎などの、旧長岡藩士の名前がある。 今回、それ以前にも、小林見義、渡部久馬七、山田鶴遊が入塾していたことを知った。

 中でも藤野善蔵(弘化3(1846)~明治18(1885))は、福沢が深い信頼を 寄せていた人物で、蕃書調所で旧知の小幡篤次郎の紹介で明治2年5月に慶應 義塾に入った。 明治5年、長岡に「洋学校」が出来ると、月給125円という 高給で英学教授として招かれ、慶應義塾のカリキュラムと教科書とで、長岡中 学につらなる近代教育の基礎をつくった。

 今回、見学した「長岡高校記念資料館」で、長岡藩は、江戸初期に三河以来 の譜代牧野忠成の入部以来、文教奨励の風があり、古義学派(佐藤仁斎の学統) の日常生活に役立つ学問や倫理を高揚する藩校「崇徳館(そうとくかん)」が洋 学校の前身となったことを、知った。 その点でも、福沢の実学の精神に通じ るものがあったのだろう。

コメント

_ 梶谷恭巨 ― 2008/12/23 14:18

「ある旧制中学校長の足跡」と題し、旧制古志郡立長岡中学校長・仙田楽三郎および長岡中学の校長・羽石重雄両先生の足跡と関係を調べていたところ、東京帝国大学の明治30年の職員録に会計課長・東京帝国大学書記「名児耶六都」の名前を発見。 新潟県出身であることに興味を覚え、更に調べたところ、貴兄のブログに行き当たりました。 尚、名児耶氏は、明治27年、小金井良精先生が医科大学長であった年にも会計課長として記載されています。
 帝国大学の会計課長であった経緯から東京帝国大学の出身かと推測していたのですが、慶応義塾出身の由。 帝大書記官・会計課長になられた経緯に関心があり、何か情報はないかとコメントを書いた次第です。 宜しくご教導頂ければ幸いです。

Best regards
梶谷恭巨

_ 轟亭 ― 2008/12/24 16:37

梶谷恭巨様
名児耶六都が帝大書記官・会計課長になっていたことは知りませんでした。
少し調べましたが、帝大書記官・会計課長になった経緯はわかりません。
名児耶六都(なごや・むつ)は、家老牧野頼母の男、藤野善蔵に4か月遅れてというから、明治2年9月の慶應義塾入塾、明治4年の三田移転早々の頃は、寮の監督のようなことをしていたようで、明治6年大阪慶應義塾の教員として赴任しているようです。
明治14年福沢に慶應義塾塾監への就任を打診されて断わっています。明治20年の慶應義塾維持会の維持金納入者に名前があります。その後のことは、わかりません。
 福沢門下の文部官僚に九鬼隆一(『「いき」の構造』の周造の父)という人物がいて、明治14年の政変で福沢を裏切り、福沢に蛇蝎のごとく嫌われたのですが、あるいはその辺とのつながりがあったのかもしれません。

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