「司法制度の父」、非業の死2009/06/08 06:36

 政府の役人の不正を追求していった江藤新平は、高官たちから煙たがられる 存在となっていた。 大蔵省に司法省の予算が削減される中、江藤は「国民の 位置を正す」法治主義と、司法権の自立をを推進するため、裁判所増設の予算 を要求して、長州閥の木戸孝允らと対立する。

 1873(明治6)年1月、山縣有朋が推進した徴兵令の詔発布。 4月、山縣 が司法省から山城屋事件についての追求を受け陸軍大輔を辞任。 その翌日、 後藤象二郎、江藤新平、大木喬任が参議になる。 6月、山縣が陸軍卿になる。  10月、征韓論に端を発して政府が分裂した明治6年政変で、西郷隆盛、板垣退 助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣が参議を辞任した。  江藤新平によって失脚に追い込まれていた尾去沢銅山事件の井上馨と山城屋 事件の山縣有朋が、西郷、江藤らの辞任後、しばらくしてから公職に復帰する。  そしてそれぞれ財政・経済と、軍事の分野で、明治政府の中心人物として絶大 な権力を振うことになるのである。

 政府を去った江藤新平は在野で活動、1874(明治7)年1月、板垣、副島ら と民撰議院設立建白書を出し、民意を反映した議会、三権分立の国家像を目指 した。 この頃、江藤の故郷佐賀で、士族たちの政府に反発する機運が高まっ ていた。 これを封じ込めるために、ひそかに軍隊を送った政府に怒りを感じ た江藤は2月、士族たちとともに蜂起し(佐賀の乱)、政府軍の前に敗れ去る。  逃走して東京に向かい、裁判の場で、政府の抱える問題点を明らかにしようと した江藤だったが、四国の高知で捕えられ、佐賀に送り返される。 4月8日 意見を述べることすら許されない、形ばかりの裁判にかけられ、13日には斬首 され、自身が禁じていたさらし首にされる。 41歳だった。  その江藤新平は今、「司法制度の父」と呼ばれている。