福沢は法典延期派だった2009/06/09 07:12

 「司法制度の父」「江藤新平」を書いたのは、実はマクラのようなものであっ た。 福澤諭吉協会の5月30日の土曜セミナーは、高田晴仁慶應義塾大学法 学部教授の「福澤諭吉の法典論」だった。 福沢諭吉は、汲めども尽きぬ泉の ようなもので、また新しい切り口からの興味深い話を聴くことが出来た。

 高田晴仁さんは、法学部で「商法」や「有価証券法」を担当している。 法 科大学院の設立にも関わり、学則の起草を任されて、法学部の学問と福沢の開 塾の精神について、考える機会があった。 現行の法律が、どういう形でこう なったかを考えると、明治期にすべて輸入品(原則は)として受け入れた経緯 から、押える必要がある。 法律のその産みの苦しみが、如実に現れたものに、 明治22年?~25年(通説)の「法典論争」(とくに「商法典」)があった。

 法典そのものは、明治初年から(「江藤新平」でみたように)政府当局者によ って法典編纂作業が進められ、条約改正のための法典編纂も行われた。 「商 法」も出来上がって、公布もされていたのに、施行はストップされていた(こ の話は、まったく知らなかった)。 「法典論争」というのは、政府の法典断行 派と、それに反対する法典延期派の論争だった。 結局は、法典延期派が勝つ。  その中で、法典断行派と思われそうな福沢が、実は法典延期派だったという。  高田晴仁さんは、それが大ショックで、福沢の議論の根拠や内容がどういうも のであったか、法学部の学問とも関わるので、研究を進めることになったとい うのである。