保養地・沼津へ行く<等々力短信 第1000号 2009.6.25.>2009/06/25 00:48

 6月13日、福澤諭吉協会の一日史蹟見学会で、沼津・三島方面に出かけた。  沼津兵学校や江原素六の資料を展示した沼津市明治史料館、クレマチスの丘・ ビュフェ美術館、沼津御用邸記念公園などが主な目的地であった。 福沢は晩 年、鉄砲洲時代の塾生で医者になった安藤正胤(旧姓古谷)が1890(明治23) 年ころ御用邸近くの静浦に開いた保養館という「病院の付いた静養最適の旅館」 に何度も滞在している。 大患後の1900(明治33)年夏にも、沼津駅から4 キロの道を元気に歩いて、保養館に着いたそうだ。 現在、その跡地には記念 碑もないが、一部に老人保健施設が建っていた。

 バスで御用邸記念公園や保養館方面に向っていて、左手の山の姿が、鮮やか に記憶に残っていることに気が付いた。 子供の頃、母の一念で、毎年夏にな ると、三津浜の安田屋旅館へ海水浴に来ていた。 東海道線で、経木の匂うざ らざらのアイスクリームや冷凍みかんを食べながら、アーチ型の穴が開いたト ンネルや丹那トンネルを通り、沼津駅に着いた。 車で(時には沼津港からガ ラス底の観光船・龍宮丸で)三津浜へ向うと、静浦(保養館の地)、江浦、多比 のあたりでは、一斉に煮干を煮たり干したりする臭いが立ち込めていた。 淡 島の横を通って、内浦に入ると、間もなく三津浜に到着だ。

 三津浜から、淡島との間に見える富士山は、日本一の景色で、別荘があると 聞いていた梅原龍三郎が何枚も描いている。 旅館の前は小さな海水浴場だが、 湾内だから波も静かで、子供が遊ぶのに最適だった。 水族館へ行くトンネル にはパワフルな沢蟹がいた。 父や兄と淡島までボートで漕ぎ寄せて山百合を 採ったり、水深の深い駿河湾に長い糸を下ろし海老で鯛を釣ったりした思い出 は貴重である。 高校三年の夏には、まだ小学生だった弟と二人で数日間、安 田屋旅館に滞在した。 ペギー葉山の「南国土佐を後にして」が流行っていて、 龍宮丸の船着場が一日中流していたのが、高校三年生の気分と混じり合って心 に残っている。 三津浜は第二の故郷のような気さえする。

 沼津市明治史料館の方にお尋ねすると、沼津市の駿河湾沿岸は、静浦、内浦、 西浦の三の浦と呼ばれている。 西浦のはずれが大瀬崎で、ここを回ると、戸 田(へだ)に至る。 幕末、下田にやって来たロシアのプチャーチンは、安政 の大地震の津波に遭い、大破したディアナ号は曳航中の駿河湾で沈没、戸田で 日本初の洋式帆船ヘダ号が作られた。 戸田では学生時代にクラブで夏の合宿 をしたことがあった。

千号を迎えた「等々力短信」2009/06/25 00:50

本日発行の「保養地・沼津へ行く」で「等々力短信」は1000号を迎えた。  「広尾短信」として創刊第1号を出したのは、1975(昭和50)年2月25日、 33歳の時だった。 それから34年と4か月かかったことになる。  始めはハガキに、和文タイプで原紙を打ち謄写版印刷していた。 月3回「五 の日」(広尾の縁日の日)5日15日25日に発行、40部ほどだった。 翌年10 月に等々力に引っ越し、10月15日の59号から「等々力短信」とした。 1982 (昭和57)年9月15日の263号からワープロ専用機「文豪」を採用、A4判 一枚の手紙スタイルになった。

 1991(平成3)年3月から、パソコン通信ASAHIネットにフォーラム「等々 力短信・サロン」を設けてもらい、「等々力短信」を配信し、現在に至る。  家業のガラス工場を畳むことにしたのを機会に、2001(平成13)年1月25 日の899号から月一回25日の発行とした。 それから1000号まで、8年半を 要したことになる。

現在直送しているのは、郵便91名、メール97名。 2005(平成17)年5 月25日の951号からは、インターネットのブログ「轟亭の小人閑居日記」 http://kbaba.asablo.jp/blogにも配信しているので、そちらでも多くの方に読 んでいただいている。

 この間、1986(昭和61)年11月『五の日の手紙』(261号~400号収録)、 1990(平成2)年12月『五の日の手紙2』(401号~540号)、1994(平成6) 年12月『五の日の手紙3』(541号~680号)、2001(平成13)年4月『五の 日の手紙4』(681号~890号)の4冊の私家本を刊行した。