「人を書物にして居られた」福沢先生2009/06/11 06:39

 高田晴仁さんが、「福沢の法知識の源」に関して、興味深いエピソードを話し たので、それを書いておく。 「福沢の法知識の源」の、(a)は書物で、チェ ンバース(実際はBurton,John Hill)(←「等々力短信」「小人閑居日記」の読 者なら、よくご存知の父バートン)やブラックストーンなどなど。 私が興味 深いというのは(b)「人を書物に」―松山棟庵が伝える逸話、である。

 『慶應義塾学報臨時増刊第39号 福澤先生哀悼録』(明治34年)194~195 頁に松山棟庵はこう書いているそうだ(これまで引用されていないようだと、 高田さん)。 「小幡さんは此間も先生は『人を書物にして居られた』と云ふて いたが、名言だと思ふ。才智の働きの鋭い事と云ふたら実に驚くべき者で、平 生さう書見もして居られぬ様だが、いろいろ専門の部門にまで精通して居られ たのは、即ち人を書物の代りになさるからで、様々の人が来て法律論なり政法 論なりをする。先生は裏からたゝき表からこなして、あらん限云わした末に、 自分の思想と練り合はして或新しいものを発見される、それを以てまた他の法 律論者に向って行くと、また得る所がある、前の人間が次に先生の前に現はれ ると、モーハヤ先生はズント豪い者になって居る。」

 高田さんは、先生の所に法律論にやって来た人について、英法派との関係を いい、元田肇、増島六一郎(明治18年 英吉利法律学校)の名を挙げ、東大の 出身だが英米法を勉強した野党的立場の人で、代言人(弁護士)になって実際 に仕事をしていた、と語った。