松陰の兄・杉民治(みんじ)2015/02/01 07:56

 「等々力短信」第1067号「松陰、ペリー黒船に密航図る」を読んだ方から、 いくつかの反響があった。 その一つ、群馬県高崎市在住で2006年2月22日 から当日記で、その新聞執筆コラム「ちょんまげ時代の高崎」を紹介したこと のある堤克政さんは、吉田松陰と杉道助さんの関係を知って、道助さんの祖父 で、松陰の兄杉民治(みんじ・『花燃ゆ』では梅太郎(原田泰造))のことを調 べたという。 杉一家は犯罪人とされた松陰に苦しめられながらも、堂々と生 き、明治になって長州の天下になると、杉民治は松下村塾を再興し、女学校の 校長として女子教育に生涯を捧げたそうだ。

 さらに、小田村伊之助、改名し楫取素彦(かとりもとひこ)は、群馬県令に なる。 杉文は最初久坂玄瑞と結婚するが、久坂の死後、明治になって妻寿(文 の姉)に死なれた楫取素彦と再婚する。 『花燃ゆ』は、群馬県令とその妻が 主役のドラマだというので、群馬県、とくに前橋市は大変熱を上げていて、観 光客の来訪に期待しているそうだが、観光の対象になるような物件が文に関し ては全くなく、楫取素彦については余りないのだそうだ。

 その手紙を読んで、私も、少し杉民治と、楫取素彦について、調べてみた。  杉民治(梅太郎)は、文政11(1828)年長州藩士杉常道(百合之助)と母滝の 長男として長門国萩の松本村に生れた。 兄弟姉妹は、二つ下の松陰寅次郎、 芳子、寿(久)、艶、文(美和子)、敏三郎の三男四女だった。 幼少期は寅次 郎とともに父や叔父玉木文之進に学び、のちに藩校「明倫館」で学んだ。 嘉 永6(1853)年江戸湾警備のため相模国上宮田(現在の三浦海岸駅周辺)に出 張するが、翌安政元(1854)年松陰の黒船密航未遂事件に関連して帰国し、郡 奉行所勤務となった。 しかし安政6(1859)年安政の大獄で捕縛された松陰 に連座して、父百合之助とともに免職となる。 翌万延元(1860)年杉家を相 続して、再び藩に出仕。 文久3(1863)年御蔵元役所本締役となる。 慶應 元(1865)年藩内戦の際は、東光寺組を結成し、手廻組として藩の革新派に加 わった。 同年、民生方御用掛、明治元(1868)年当島・浜崎の宰判(一人の 代官の管轄する行政区画、萩市及び阿武郡の一部)の民政主事助役となる。 明 治2(1869)年藩の役人として民政に尽したことが評価され、藩主から民治(み んじ)の名を与えられた。 新政府では山口県に出仕し、ほとんど平地のない この山代地域で、雑木林を切り拓き、川の水を水路に引いて新田開発を行うな どの功績がある。 明治11(1878)年まで長州の発展に寄与して退職した。

 明治13(1880)年頃、閉鎖されていた松下村塾を再興、子弟の教育に当っ た。 明治25(1892)年5月、私立修善女学校の校長となり、女子教育にも 努めている。 明治29(1896)年に財政難で一度閉鎖されたが、明治36(1903) 年に萩婦人会(民治の妻幸子(亀)が幹事の一人、妹楫取美和子(文)は副会 長の一人)が設立母体となって再開され、杉民治が再び校長となった。

 明治43(1910)年11月、82歳で死去した。 杉民治には、吉田小太郎、滝 子、道子の3人の子があり、杉道助さんは、次女滝子の子である。