スコットランド留学から、寿屋の山崎まで ― 2015/02/23 06:38
オリーヴ・チェックランド著、和気洋子訳『マッサンとリタ―ジャパニーズ・ ウイスキーの誕生』(NHK出版)という本がある。 朝ドラ『マッサン』が始 まる頃、家内が興味を示したので買って来た。 これを類書の中から選んだの は、和気(わけ)洋子さんが慶應義塾大学商学部名誉教授で国際経済学と地球 環境問題の専門、2008年に三田演説会で「地球環境からのメッセージ―成長の 限界から成長の源泉へ」を聴いたことがあったからだ。
あらためて、パラパラと読む。 竹鶴政孝は1894(明治27)年広島県竹原 の造り酒屋の三男として生れ、二人の兄が早大と九州帝大を出て夫々の仕事に 就き、三男ながら家の跡取りとされていた(弟は慶應にいた)。 リタ(ジェシ ー・ロバータ・カウン)は1896(明治29)年(私の母方の祖母と同じ年)、ス コットランド、グラスゴー近郊のカーカンテロフに生れた。 政孝は1916(大 正5)年、大阪高等工業学校醸造科を卒業、摂津酒造に入社、2年後、本場の スコッチ・ウイスキー造りの習得を会社から命じられ、グラスゴー大学でリタ の妹・エラと知り合う、同大や王立工科大学で学び、1919(大正8)年ロング モーン蒸留所やギネス蒸留所で実習する。 1920(大正9)年1月、リタと結 婚、キャンベルタウンに住み、ヘーゼルバーン蒸留所で5か月間実習する。 11 月、リタとともに帰国。
26歳、本場スコットランドでウイスキー製造の奥義を会得してきた唯一の日 本人として帰国した竹鶴政孝は、本場の職人たちに劣らぬ心意気で、彼らと同 様の精魂を傾けた正統なジャパニーズ・ウイスキーを造りたいという思いに胸 を膨らませていた。 だが日本での彼の立場は、あくまでも人造イミテーショ ン洋酒を生産する会社の化学技師に過ぎなかった。 竹鶴が、本物のウイスキ ーをこの日本で実際に造ったとしても、果してどれだけの需要があるかも疑問 だった。 スコットランドなら当り前の製法で、時間をかけ、経費をかけ、日 本で製造、熟成したウイスキーに買い手がつくのか、極めて難しいものであっ た。 竹鶴は、二年間も本場で修業させてくれた摂津酒造の阿部喜兵衛社長に 深い恩義を感じていたが、第一次世界大戦後の復興景気も過去のものとなり、 摂津酒造の正統なスコッチ・ウイスキー製造の野心的計画は見直しを余儀なく されたため、1922(大正11)年、竹鶴はついに摂津酒造を去ることになる。
失業した竹鶴は桃山中学校の化学教師となり、リタも桃山中学校と帝塚山学 院で英語教師として働き始めた。 数か月後の1923(大正12)年春、大戦中 に赤玉ポートワインで業績を大きく伸ばしていた寿屋(現、サントリー)の鳥 井信治郎が、竹鶴の信念を理解し、その専門知識を生かして自分の会社でウイ スキーを造らないかと誘ってくれた。 竹鶴は、ウイスキー製造の一任、必要 な資金はすべて鳥井が用意する、契約期間は10年、年間給与は4000円(スコ ットランドから蒸留技師を招くのと同額)という条件を出したと、自伝に書い ている(著者は4番目の条件の法外な報酬を疑問だとする)。
関東大震災の1か月後の1923(大正12)年10月1日に用地買収が完了、京 都と大阪の間、豊臣秀吉と明智光秀の古戦場、山崎で本格的ウイスキー製造を 目指す、日本初の蒸留所造りが開始されたのである。
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