神吉創二さん『伝記小泉信三』出版まで2015/12/10 06:30

 11月28日は交詢社で、福澤諭吉協会の土曜セミナーがあって、慶應義塾幼 稚舎教諭の神吉創二さんの「小泉信三という人―『伝記小泉信三』を上梓して ―」を聴いて来た。 『伝記小泉信三』は、昨年6月慶應義塾大学出版会から 刊行された。 神吉創二さんは1970(昭和45)年生れ、慶應義塾大学法学部 法律学科を卒業、大学時代は体育会庭球部主務を務め、1994年から現職、同じ クラスを6年間担任する幼稚舎で4回目の6年生を担任している。

 神吉さんは、来年は小泉信三(明治21(1888)~昭和41(1966))没後50 年、自分は没後の生れで、今日ご出席の小泉妙さんは、9月に卒寿(90歳)を 迎えられた祖母の世代の方だが、大切な友人と思っている、そのことはあとで 触れる、と始めた。 『伝記小泉信三』の上梓のきっかけは、テニスと今上陛 下のおかげだという。

 交詢社に入ったのは二度目だそうな神吉さんの高祖父は、交詢社創設メンバ ーの一人岡本貞烋(嘉永6(1853)~大正3(1914))(以下、敬称略も)で、 曾祖父の神吉英三(明治22(1889)~昭和47(1972))は小泉信三の普通部 の一年後輩で、三田山上の寄宿舎に入り、三田に住む小泉と山の上でよく遊び 「信ちゃん」と呼ぶ親しい仲だった。 小泉はテニス、英三は野球に明け暮れ たため、二人とも日本作文が不可で進級せず再試験を受け、「小泉さんは95点。 私より出来るんだなアと羨んだ」と、『小泉信三先生追悼録』に書いている。 テ ニスで小泉が普通部(中学)生で全塾の大将になったと同じく、野球で英三は 普通部生で大学の代表選手として3番センター、早慶戦で勇名を馳せた。 英 三が大正9年、三井物産ニューヨーク支店在勤中、流感に罹り鎌倉で静養して いた時、小泉もロンドン留学の猛勉強で体をこわし静養中だったので、ひと夏 いろいろ話をする機会があって啓発された。 小泉は医者の言いつけを厳格に 守るので、英三もつれて予定より早く全治の余慶を受けた。 祖父神吉貞一(大 正3(1914)~平成5(1993))も、小泉信三とつながりがあった。 貞一は、 画家で普通部図画教師仙波均平の教え子で、30年ぶりの仙波均平個展の推薦文 を小泉に依頼に行き、『新文明』の連載にも書いてほしいと頼んだところ、「仙 波さんをパブリシティにしたいようだが、それは仙波さんが望まれないことだ よ」と断られ、「流石に友を知る言と感服した」と『泉〈季刊〉』に書いていた。

 庭球部の学生時代、「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の碑の立つ日吉のテニスコー トで練習したが、先輩から小泉先生の話をあらためて聞いたことはなかった。  その言葉は、近すぎて遠い言葉だった。 合宿所に掲げられている熊谷一彌、 原田武一ら6名(志村彦七、山岸二郎、藤倉五郎、隈丸次郎か?)の写真も、 学生は誰か知らないのではないか。 2001(平成13)年庭球部創部百周年記 念行事があって、記念誌『慶應庭球100年』(庭球三田会)を共編し、小泉先 生の随筆を選ぶ作業をした。 祝賀会がホテル・ニューオータニであり、接待 係で受付にいると、SPが現われ、知らされていなかった天皇皇后両陛下がい らっしゃった。 近い距離でご挨拶したが、倒れそうな、とろけるような瞬間 だった。 両陛下は一時間もの長い間パーティーにおられ、みんな列をつくっ てご挨拶をした。 私は皇后陛下の列に並び、雅子さまの愛子さまご出産前の ことで、そのお祝いを申し上げたが、なんとも品のある方だと感じた。 一大 学の一運動部の祝賀会に、天皇皇后両陛下がおいでになって、このようになさ った。 小泉信三先生を体感として知った。

 小泉先生の文章力に魅かれて、真似をした。 幼稚舎の雑誌『仔馬』に、早 慶戦の応援態度が酷いと、小泉風のタッチで書いたら、山内慶太さんから真似 をしましたね、と連絡があって、お付き合いが始まり、2004(平成16)年随 想集『練習は不可能を可能にす』(慶應義塾大学出版会)を共に編んだ。 その 年8月、次女小泉妙さんから小泉先生の資料、遺品多数が福澤研究センターに 寄贈され、それぞれについてのエピソードが実に興味深く、埋もれさせるのは もったいないと、都倉武之さんも加わった三人で、妙さんからの聞き書きを2 年間、計26回行った。 毎月、表参道のお宅で、おしゃれで素敵な妙さんの 濃やかな心配り、正確な記憶、豊富な内容の知識や話題、小泉家、阿部家の大 家族の経歴や出来事について、優しい口調で、つまびらかに語られるシャワー を浴び続けた。 2008(平成20)年小泉妙著、山内・神吉・都倉編『父 小泉 信三を語る』(慶應義塾大学出版会)刊。 小泉信三先生に偉大さと親しみを感 じ、先生と同じに自分が父を早く亡くしていたこともあり、先生を自分の父の ように錯覚した。 妙さんは祖母にあたる年代だが、先生を父とすると、私と 妙さんの関係はどうなるのか。 そんな思いを妙さんにお伝えするのを遠慮し ていたが、手紙に書いた、慶應義塾の便箋と封筒で…。 早速、妙さんに叱ら れた「父が一番嫌いだったことです」と、以来妙さんが怖かった。 今度は鳩 居堂の便箋で謝った手紙に、妙さんは、父を親と思ってかまいません、私とは よい友達、年の離れた姉弟でかまわない、と返事を下さった。                              (つづく)