『伝記小泉信三』執筆裏話2015/12/12 06:30

 『伝記小泉信三』では、資料を大きく逸脱しないように心掛け、セリフを勝 手につくらなかった。 二つだけ、オリジナルがある。

 一つは、「練習は不可能を可能にす」の真意。 昭和37年10月28日、慶應 義塾体育会70周年記念式典の記念講演で、小泉信三先生は練習は不可能を可 能にする体験、フェアプレーの精神、生涯の友の三つを「スポーツの与える三 つの宝」であると述べた。 その内、「練習は不可能を可能にする」のは、運動 の技だけではない、「徳と美」、「容儀礼節」という道徳上のことが、真意だ。 昭 和15年の「塾長訓示」の一つに「途に老幼婦女に遜(ゆず)れ」、まとめて「善 を行うに勇なれ」がある。 電車で席を譲りたいと思っても、とっさには出来 ない。 常に準備し、練習しているから出来る。 ほんのわずかな勇気をいつ も持つ、と考えていることが要る。 水泳の10メートルの飛び込みも、恐れ ず飛び込む人間の徳を、練習で養っていたから出来る。 正しいことを知りな がら行わないのは、知らないのと同じだ。 勉強、礼儀、挨拶、登下校のマナ ー、品格を高めるようにと練習することが必要だ。 幼稚舎で、緊急地震速報 の避難訓練をしている。 何度もしていると、速報の最初の音「ウィン」と聞 いただけで、机の下にいっせいに潜る、それが自分の生命を守る。

 もう一つは、亡き父を知る旅の始まり(第3章「塾長時代―戦争の中で」)。  小泉信三は、45歳で塾長になった。 それは父信吉の亡くなった45歳であり、 福沢先生に対する恩返しの決意と、父と同じ塾長という立場で頑張ってこそ初 めて、父を近しく感じ、父のことを知ることができるかも…、そう考えたのか もしれない、と書いた。 妙さんに読んで頂いたら、「なかなかいいわよ」と言 って下さった。

 錦織圭以前に、日本人がテニスで世界のトップ10に入ったのは5人で、熊 谷一彌(いちや)、原田武一(たけいち)、山岸二郎の3人が慶應で、佐藤次郎 が早稲田、清水善造が高等高商(現一橋大)、山岸以外、皆軟式テニスで育ち、 硬式に転向、恐ろしく球を拾う軟式独特の技術やドライブで活躍した。 2008 年の「小泉信三展」で小泉のテニスの写真を見た天皇陛下は、「軟式ですね」と おっしゃった。

 『伝記小泉信三』に、頁数の関係で削除した、以下のような原稿があった。  第2章「二、ヨーロッパ留学」、信三が大学を卒業して教員となった年に、庭 球部では軟式から硬式に転向するか議論になった。 当時のテニス界で慶應は 十分に強かったから、せっかくの技術と地位を捨て、新しい硬式にチャレンジ するのは難しく、対戦相手もいなかった。 信三も軟式転向には反対で、ちょ うど高商戦に敗れた時だったので、「天下を平定してから」という偉大な先輩で、 大学の教員でもある信三の意見は絶大な影響力があった。 その後、対抗戦す べてに大勝をおさめた慶應庭球部は、日本テニス界で初めて硬式転向に踏み切 る。

 こうした時期に留学した信三は、ロンドンでテニスクラブに入り、硬式テニ スを体験し、ウィンブルドン選手権で見た硬式テニスの強烈なストローク、決 勝戦の試合内容に、大いに驚き、恐れ、降参した。 軟式転向に反対したこと が、間違っていたことを悟り、目先だけな浅はかな見解を恥ずかしく思った。  その時、四連覇を達成したワイルディング選手の著書『庭球術』を慶應庭球部 に送り激励した。 信三は、学生が硬式転向に踏み切ったことを誇らしく思い、 改めて後輩たちの大英断に勇気をもらった。 学生に負けず、自分も頑張らな ければならないぞと、学問の魂をますます奮い立たせることになった。(つづく)