五代才助(友厚)の薩英戦争2015/12/30 06:41

松木弘安(寺島宗則)と五代才助の薩英戦争<小人閑居日記 2003.5.1.>

 6月27日に鹿児島湾に着いたイギリス艦隊は、七艦も連ねて威圧すれば、 薩摩藩は簡単に賠償金の支払に応じると思っていたのだろう。 それが7月1 日になっても、らちがあかない。 2日の夜明け前、脇元浦に隠れていた薩摩 藩の蒸気船「天祐丸」「白鳳丸」「青鷹丸」を急襲して、拿捕してしまう。 こ の三隻の価額は、賠償金を上回るから、それを担保に交渉しようと考えていた のだが、薩摩藩は拿捕を知って、台場からの砲撃を開始した。 旗艦「ユーリ アラス号」は台場からの射程距離にいながら、砲戦の準備をしておらず、沈黙 したままだった。 幕府からの賠償金44万ドルのドル箱を弾薬庫の前から片 付けて、弾薬を運び出すまで1時間近くもかかってしまった。 戦闘状態に入 って、足手まといになる拿捕した三隻を、イギリスは焼却してしまう。

 この「天祐丸」「白鳳丸」「青鷹丸」の船頭(ふながしら)が、松木弘安(寺 島陶蔵、宗則)と五代才助(友厚)だった。 乗組員は捕えられて桜島に解放 されたが、松木と五代は「ユーリアラス号」に移され、行方不明となる。 英 語が出来て、西洋事情に明るい二人は、身の安全のため進んでイギリス艦に留 まり、そのまま横浜に帰ることになる。 艦隊には通訳兼書記役として武州羽 生村出身の商人清水卯三郎が乗っていたが、清水は蘭学を川本幸民に学び、松 木は兄弟子にあたっていた。 横浜で釈放されたものの、薩摩藩士はもとより 幕府からも、追われる身になった二人を、清水卯三郎がかくまう。

松木弘安は、これより先、遣欧使節の通訳として福沢諭吉と一緒にヨーロッ パへ行った福沢の友人だった。 清水卯三郎も、蘭学仲間だから、福沢は松木 と清水から薩英戦争の話を聞き、かなりくわしく『福翁自伝』に書いている。  だがこの一章は松木と五代が二隻の火薬庫に導火(みちび)をつけておいたと あるなど、誤りが多い。 福沢の体験でなく、聞き書きによるものだからだろ うといわれている。

薩摩藩の海外留学生派遣<小人閑居日記 2003.5.2.>

 五代才助(友厚)は、いっしょに潜伏していて時期尚早と反対する松木と別 れ、元治元(1864)年正月、川路要蔵と変名して長崎に潜入し、英商トー マス・グラバー(グラヴァー)と知り合う。 薩英戦争の敗北と捕虜となった 経験は、五代を急進的開国論者にし、外国貿易による富国強兵のために海外留 学生派遣の必要を痛感させる。 同年5月頃、「五代才助上申書」を藩に提出、 罪を詫びて、上海貿易と海外留学生派遣を建策した。 そのころには藩論も開 国富国強兵に傾いていた。 6月、長崎にいるまま帰参を許された五代と、藩 唯一の渡欧経験者松木弘安を視察随員として、元治2(1865)年正月15 名の留学生派遣の藩命が下る。

 留学生一行は密航のため、それぞれ変名を使い、グラバー商会のライル・ホ ームが同行、4月17日グラバー商会所有の蒸気船オーストラリア号で串木野 から出航する。 その中には、のちに外交官の嚆矢となる鮫島尚信、教育制度 の改革と近代化につくした森有礼、海軍中将松村淳蔵、カリフォルニアの「葡 萄王」となる長沢鼎(磯永彦輔)、フランス語の達人外交官中村博愛などがいた。 (犬塚孝明著『薩摩藩英国留学生』中公新書がくわしい)

トーマス・グラバーと明治維新<小人閑居日記 2003.5.3.>

 きのう五代才助が長崎に潜入してから、トーマス・グラバーと知り合ったと 書いたが、杉山伸也さんの『明治維新とイギリス商人 -トマス・グラバーの 生涯-』(岩波新書)を見たら、薩英戦争直前に長崎でイギリス海軍軍医レニー とグラバーが薩摩藩の五代ともう一人の高官を訪問し、イギリス艦隊来襲の際 の衝突の回避と賠償金の支払方法について会談している事実があった。 五代 とグラバーは戦前から顔見知りだった。

 1865年7月、オールコックの後任として、ハリー・パークスが駐日イギ リス公使として着任する。 対日貿易の発展を期待するイギリスにとって、外 国貿易の利益を独占しようとする幕府の方針は、必ずしも受け入れられるもの ではなく、幕府の外国貿易独占に反対する西南雄藩と共通の利害関係を持って いた。 1866年2月に鹿児島を訪れたグラバーの仲介で、7月、パークス の鹿児島訪問が実現する。 その前月、イギリスの対日政策は、幕府に対する 政治的な支持から、通商の発展だけを求め、政治的には厳正な中立政策をとる 方針に転換していた。  1908(明治41)年7月、グラバーは外国人としては異例の勲二等旭日 章を受けた。 伊藤博文、井上馨連名の叙勲申請書草案には、「グラバが薩長二 藩のために尽したる所は、即ち王政復古の大事業に向って貢献したるものなり」 「彼が英公使パークスに対して薩長二藩と親善を開かんと勧説した」「此大勢に 乗じて事を成すの権力は西南の大名にあり、……英国はよろしく薩長二藩に結 びてその事業を幇助すべし云々と。これグラバ従来の自信なり。彼素より営利 の商人なれども、その自信の方針を貫徹せんとせば、勢い営利の範囲を脱して 誠意と熱心とを以て事に当らざるを得ず」とあるという。