扇辰「三井の大黒」前半2015/12/06 06:44

 よく器用不器用なんてことを申します。 器用な方は、犬小屋から、ログハ ウスまで、自分で作る。 器用と、腕が優れているというのは、大変違う。

 あそこに妙な奴がいる、お鷹匠が迷子になったような野郎だ。 さっきから、 ぐずぐずしてやがって、江戸の大工は形(なり)は勇ましいが、仕事はまずい、 鼻掻いてるのが一番まずい、鉢からげ(鉢巻)しているのは、松兄ィのことだ、 いじればどうにかなる、なんて言ってる。 おい、みんな、あの野郎だ、やっ つけちゃえ。 こっちへ、頭出せ、ボカボカボカボカ!

 やいやい! 棟梁だ。 何でこんな手荒な真似をするんだ。 秀が、こいつ の言うのを、そばで聞いたんだ。 江戸の大工は形は勇ましいが、仕事はまず い、俺が一番まずいって。 お前、仕事はうまいか丁寧か、下手でぞんざいで、 いいじゃないか。 そうなんですよ。 手前え達は、仕事をしてろ。

 お前さんか、ふくれきった風船みたいになって、いくつ殴られた? たしか 十八殴られた。 どこの人だ、お前は。 俺は職人で、この帳場を預かる長兵 衛だ。 わしは西の方の番匠だ。 大工が大工のことを言うのはよくない。 だ から、黙って殴られた。 よかったら、ウチに来ないか、半年でも一年でも働 いてくれたら、襟垢のつかない着物に、土産物ぐらい持たせられる。 嫁さん はあるか、あるなら話しといた方がよくはないか。 大丈夫だ、つべこべ言う ようなら、かかあを叩き出しても、お前をウチに置こう。 さすがは関東の棟 梁だ、その気前、褒め置く。

 橘町。 お勝、今、帰えった。 あの大神宮さまのお札配りみたいな人は、 誰だい。 今、出て来た面白い顔の人が、お内儀か。 オハチにお目にかかり ます。 腹減ってるんだろ、手盛りでやってくれ、おかずはその辺を開けると、 鮭の焼き冷ましかなんかがある。 もういいのか、片さなくていい、すぐみん なの飯になる。

 みんな帰ったか、ご苦労、ご苦労。 今日からウチにいてもらうことになっ た、一言、謝っておけ。 痛かったろう。 痛ーーい、お前のが一番痛かった。  どこの生れだ? 飛騨。 飛騨には左甚五郎利勝先生という名人がいるそうだ が、会ったことありゃあしないか。 会った。 どんな方だ? つまらない男 だ。

名前を聞いてなかった。 名前は? あったよ、それがね、忘れた。 箱根 越しで汗かいて、のぼせて忘れた。 名前、考えてやってくれ。 ポンシュウ ってのはどうだろう、花火がポンと上がって、水の中にシュウと落ちる。 い いなあー、前からポンシュウになりたかった。 カラスカアで夜が明けた、起 こして来い。

扇辰「三井の大黒」後半2015/12/07 06:23

 猫の手も借りたい、今日から仕事に行ってくれるか。 おもちゃ箱…、道具 箱は俺のが一組ある。 拝見してもいいか。 これは、なかなかいいお道具だ、 わしの使いよいように直してもいいか。 藍染町の帳場だ。 おいこら丁稚、 権次てのか、この道具箱を担げ。

 何をやろう。 板削れって、いうのか、おいこら丁稚、そこにある砥石を取 れ。 それから、いつまでも、鉋(かんな)を研いでいる。 曇り(休憩)だ。  曇りって何だ、煙草を喫むのか、煙草は嫌いだ。 ポンシュウ、飯だ、おかず は鮭だ。 鰤(ぶり)はないか。 午後の三時まで、鉋を研いだ。 鉋を取り、 板を削る。 鉋屑が、蝶が舞うようだ。 二枚の板を合わせると、丁稚、剥が れるかどうか、やってみろ。 子供だと思って馬鹿にして。 ンンン、ハガレネ エ。 俺にまかせろ、仕事はうまかねえが、力は強い、力競べで負けたことが ねえ。 ヨッ! 気合もろともだ。 痛え、腕挫いちまうぞ、よし拝むように して、駄目だ。 わしゃ、帰るぞ。

 ポンシュウは? 二階で寝てる。 あいつは手妻遣いだ、権次がやって、あ っしがやって、剥がれねえ。 水に浸けたろう。 浸けねえ。 そんな腕の立 つ奴は、日本に一人か二人しかいない。 誰がポンシュウに板削れって言いつ けたんだ。 手前えが板削るか、生意気な真似すんな。 梅の野郎で、竹の野 郎、秀…、あ、誰もいねえ。

 ポンシュウは、来る日も来る日も、二階で寝たり起きたり。 おかみさんの 頭に、角が生える。 ワー、またシャケか、鰤はないか、富山の鰤は旨いって、 言うんだよ。 あんなもん、ウチに置くんなら、離縁しておくれ。 実は初め に、それで釘を刺された。 さすがは関東の棟梁だ、その気前、褒め置くって な、ただ者じゃないとにらんでいるんだが…。

 おーーい、ポンシュウ、降りて来い、茶が入った。 退屈だろう、いい仕事 をしなさるそうじゃないか。 江戸は火事早い、百人の仕事に七十人の手もか かっていない。 腕が上がる所じゃない、国に帰った方がいいんじゃないか。  今、懐がよくない。 ウチで手間賃仕事をしてみたらどうだ。 手始めに、 ごみ取りなんか。 難しいな。 そうだ、上方では彫り物をするんだろう、恵 比寿大黒なんてのはどうだ。 二階を仕事場に借りてもいいか。

 十日、籠り切りでやっていた。 生きていたか。 丁稚、駿河町の越後屋ま で、手紙を書いたから、届けてくれ。 権次、使いだ。 それから儂(わし)、 風呂へ行こうかな。 すぐ行けーーッ、今すぐ。 シャボン、手拭、湯札だ、 ゆっくり暖ったまって来い。 

 ポンシュウ、あっしと繁が踏み台を作っている横で、やってました。 この 踏み台は、百年持たない。 彫り物、俺が見てみよう。 きれいに片付いてや がら。 いい鑿(ノミ)だ。 床の間に、大黒様一体。 陰から陽へ、パチッ と目を開いて、笑ったというんですが…。 一目見ればわかる、棟梁なら。 す げえ物こしらえやがった、何だか涙が出て来た。

 越後屋さんから、お人が…。 手代の久兵衛と申します、こちらに飛騨の甚 五郎先生がご逗留と伺いまして。 はい、下にも置かないで……、今、湯に行 ってお出でで。 阿波の運慶先生の恵比寿様と、引けを取らない大黒様をお願 いしておりまして。

 でけえ座布団を、上座だ、上座。 ちょいと、お待ちになって下さい。 (湯 から帰ったポンシュウに)あなた、上座に座って。 いいから座れ、ポンシュ ウ! これがいいよ。 あんたも、ひどい人だねえ。 そう、わし甚五郎、よ かった、やっと名前を思い出した。 あの誰か、丁稚。 はい、今日から権次 ではありません。 二階から大黒を持って来て。

 これです、いかがです。 先生、有難うございます、主人も喜びます。 先 年、前金三十両お渡しして、ここに七十両お持ちしました。 別に一樽持参し ました、それと外(と)つ国今年のボジョレーヌーボーも。 棟梁、ここに五 十両、そっちに取ってもらって、儂(わし)はいいよ、二十両あれば十分だ。  遠慮しないで、取っておいてくれ、おかみさんには悪い事をした。

 恵比寿には阿波の運慶が「商いは濡れ手であわのひとつかみ」と書いていた。  紙と筆を…、甚五郎が下の句をつけた、「守らせたまえ二つ神たち」。

100歳以上「百寿者」を調査研究する2015/12/08 06:33

 「百寿者エピソードからみた健康長寿のヒント」という、ご同輩の参考にな りそうな話を聴いて来た。 11月25日の第701回三田演説会、広瀬信義慶應 義塾大学医学部百寿総合研究センター特別招聘教授の講演である。 百寿総合 研究センターでは約20年にわたって、健康長寿のモデルとして、百寿者の方 を対象にした調査研究を行ってきたという。 65歳以上を「高齢者」(根拠は ないが)といい、65-74歳を「前期高齢者」、75-84歳を「後期高齢者」、85 歳以上を「超高齢者」、100歳以上を「百寿者」、105歳以上を「超百寿者」、110 歳以上を「スーパセンテナリアン」という。 「超百寿者」とくに「スーパセ ンテナリアン」が真の健康長寿のモデルと考えられる。 「百寿者」の数は、 2015年61,568人で、男7,840名、女53,728名と、87%と圧倒的に女性が多 い(理由は分からない)。 1963(昭和38)年の150名から、指数関数的に、 ものすごい勢いで増加し、2050年には70万人に達すると予測されている。 な ぜ増加したか、社会的な総合力の表れで、社会のインフラストラクチャーの完 備、医療・介護保険、大災害が少ない、戦争がなく平和などが考えられる。

 調査研究では、北は稚内から、南は竹富島まで、百寿者とその家族にインタ ビューしてきた。 対象は100歳から104歳のグループ「ヤング・センテナリ アン」160名、105歳から109歳の「超百寿者」550名、110歳以上「スーパ センテナリアン」120名、それから90歳以上の「長寿同胞」50ペア、45歳か ら85歳の「百寿者家族」350家族、「百寿者子供」500名、「子供配偶者」350 名の話を聞いた。

 調査から分かった百寿者の特徴と長寿要因の話になる。 広瀬信義さんは、 特に「老化と炎症」と「虚弱(フレイル)」について覚えてもらいたい、それが この講演の目的だと言う。

 機能によって百寿者を分類すると、Exceptional「認知症なし・完全自立・視 聴覚障害なし」が全体の4%(男性の8%、女性の2%)、Normal「認知症なし・ 自立・視聴覚障害あり」が全体の14%(男性の14%、女性の8%)で、Frail 「認 知症・要介助」が一番多く、Fragile「寝たきり」が次に多い。 女性は、長生 きはするけれど、機能の悪い人が多い。 ご主人の名前を聞くと、ほとんど忘 れていて(笑)、息子や孫の名前を言ったりする。 長生きする男性は、機能も 高い(3~4割は認知症がなく、4~5割は自分のことができる)。

 百寿者の病歴を調べると、97%が病歴を持つ。 総計が多い順に、高血圧、 骨折、白内障、心疾患、呼吸器疾患、脳血管障害、癌、糖尿病となる。 糖尿 病は少ない。 女性は骨折が多く、それが寝たきりの原因の一つとなる。

 超高齢者(85歳以上)の医学的特徴は、栄養状態が低下、糖尿病が少ない、 コレステロールが低い、貧血傾向、動脈硬化が少ない、血栓ができやすい、炎 症反応亢進などである。 栄養状態が、これらの医学的特徴と関係し、低栄養 が老化を促進する。 栄養状態の低下は、慢性炎症が引き起こす。 炎症反応 は超高齢者(85歳以上)の生命予後を規定する、つまり炎症反応が高いと早く 亡くなる。 慢性炎症は様々な疾患(生活習慣病、動脈硬化、認知症など)を 引き起こす。 老化も炎症が関与する。 炎症反応を抑えることにより、老化 が抑制されるかもしれないが、今のところ成功していない。

 高齢者の虚弱(フレイル)=老化に伴う臓器機能の予備能の低下によって顕 在化する臨床症候。 特定の病気により起こるものではない。 フリードの診 断基準では、次の5項目中3個以上は「虚弱(フレイル)」、身体活動度の低下・ 筋力低下・動作の緩慢・疲れやすさ・体重減少。 ロックウッドの診断基準は、 30項目(歩行・着替え・買い物・認知障害・うつ状態・高血圧・糖尿病・脳梗 塞など)あり、フレイルが超高齢者(85歳以上)の生命予後を規定するとする。  フレイルの予防としては、運動(筋トレ+有酸素運動)、栄養摂取が有効と考え られている。

百寿者研究からみた健康長寿のヒント2015/12/09 06:29

 百寿者には、独特の性格特性があり、高い幸せ感を持っている。 百歳まで 生きるための性格は、男性では「新しい事が大好きで、好奇心が旺盛、環境を 受け入れる適応力がある」、女性では「家族の面倒をよく見る、人付き合いが上 手、一家を取り仕切る、ゴッドマザーのような方」と分かった。

 幸せ感の強い人が長生きするらしく、機能が悪くても幸福感は高い。 なぜ 百寿者が幸せかについて、「老年的超越」という仮説がある。 1. 衰えた時、 得意なものを選び、集中して、補正する。 2. よいことのみに集中する。 3.  個人的なこと(自分の経験)から、宇宙的なこと超越的なことに注目するよう になる。 自己感、社会関係への考え、宇宙観などが変わってくる。

 具体的に、インタビューの答から、百寿者はなぜ幸せか? 昔と今を比較し て、今は年寄りならではの楽しさがある。 悲しいことや辛いことの記憶がな いから、楽しいことやうれしいことばかりだったと思う(被爆者)。 生きてい ても仕方がないなどと思うことは、ない!! 死んだら何もできないじゃないか (109歳男性)。

 幸せの要因。 (1)達成感。 (2)受け入れ…心配しても仕方ない(110 歳女性)。 (3)希望…何歳でも希望は必要、126歳まで生きたい(110歳女 性)。 (4)家族と老いる…東アジアの高齢者の幸せ感は家族のなかで老いる こと(サムスン研究所所長ParkSanChul)。 (5)宗教観…亡くなったら観音 様が包んでくれる(102歳女性・波乱万丈の人生)。

 百寿者とその家族との話から、介護について考える。 百寿者家族の介護負 担度は、85歳介護者に比べて低い。 血縁関係は介護負担には影響しない。 家 族が気を遣い、ストレスをうまくコーティングするテクニックがある。 介護 のエピソード。 1. 東京都108歳男性のお嫁さん…父とはとても仲良し、お 互いに言いたいことをズケズケ言うことにしているので、はたから見ると、私 は鬼嫁でしょうね(笑)。(友達関係) 2. 四国106歳女性のお嫁さん…色々 と工夫しながら、介護を楽しむ、毎食豊富なアイデア料理、入浴には相撲のま わしのようなベルトを考案、本人も「とても大切にしてくれて、世話をしてく れるので本当にありがたい」と。

 そこそこの経済力が必要で、カスカスでは駄目。   広瀬信義さんの「百寿者エピソードからみた健康長寿のヒント」の結論は、 「明るく、前向き、周りの人と良い関係をつくることが、幸せな、長生きの秘訣!」。

神吉創二さん『伝記小泉信三』出版まで2015/12/10 06:30

 11月28日は交詢社で、福澤諭吉協会の土曜セミナーがあって、慶應義塾幼 稚舎教諭の神吉創二さんの「小泉信三という人―『伝記小泉信三』を上梓して ―」を聴いて来た。 『伝記小泉信三』は、昨年6月慶應義塾大学出版会から 刊行された。 神吉創二さんは1970(昭和45)年生れ、慶應義塾大学法学部 法律学科を卒業、大学時代は体育会庭球部主務を務め、1994年から現職、同じ クラスを6年間担任する幼稚舎で4回目の6年生を担任している。

 神吉さんは、来年は小泉信三(明治21(1888)~昭和41(1966))没後50 年、自分は没後の生れで、今日ご出席の小泉妙さんは、9月に卒寿(90歳)を 迎えられた祖母の世代の方だが、大切な友人と思っている、そのことはあとで 触れる、と始めた。 『伝記小泉信三』の上梓のきっかけは、テニスと今上陛 下のおかげだという。

 交詢社に入ったのは二度目だそうな神吉さんの高祖父は、交詢社創設メンバ ーの一人岡本貞烋(嘉永6(1853)~大正3(1914))(以下、敬称略も)で、 曾祖父の神吉英三(明治22(1889)~昭和47(1972))は小泉信三の普通部 の一年後輩で、三田山上の寄宿舎に入り、三田に住む小泉と山の上でよく遊び 「信ちゃん」と呼ぶ親しい仲だった。 小泉はテニス、英三は野球に明け暮れ たため、二人とも日本作文が不可で進級せず再試験を受け、「小泉さんは95点。 私より出来るんだなアと羨んだ」と、『小泉信三先生追悼録』に書いている。 テ ニスで小泉が普通部(中学)生で全塾の大将になったと同じく、野球で英三は 普通部生で大学の代表選手として3番センター、早慶戦で勇名を馳せた。 英 三が大正9年、三井物産ニューヨーク支店在勤中、流感に罹り鎌倉で静養して いた時、小泉もロンドン留学の猛勉強で体をこわし静養中だったので、ひと夏 いろいろ話をする機会があって啓発された。 小泉は医者の言いつけを厳格に 守るので、英三もつれて予定より早く全治の余慶を受けた。 祖父神吉貞一(大 正3(1914)~平成5(1993))も、小泉信三とつながりがあった。 貞一は、 画家で普通部図画教師仙波均平の教え子で、30年ぶりの仙波均平個展の推薦文 を小泉に依頼に行き、『新文明』の連載にも書いてほしいと頼んだところ、「仙 波さんをパブリシティにしたいようだが、それは仙波さんが望まれないことだ よ」と断られ、「流石に友を知る言と感服した」と『泉〈季刊〉』に書いていた。

 庭球部の学生時代、「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の碑の立つ日吉のテニスコー トで練習したが、先輩から小泉先生の話をあらためて聞いたことはなかった。  その言葉は、近すぎて遠い言葉だった。 合宿所に掲げられている熊谷一彌、 原田武一ら6名(志村彦七、山岸二郎、藤倉五郎、隈丸次郎か?)の写真も、 学生は誰か知らないのではないか。 2001(平成13)年庭球部創部百周年記 念行事があって、記念誌『慶應庭球100年』(庭球三田会)を共編し、小泉先 生の随筆を選ぶ作業をした。 祝賀会がホテル・ニューオータニであり、接待 係で受付にいると、SPが現われ、知らされていなかった天皇皇后両陛下がい らっしゃった。 近い距離でご挨拶したが、倒れそうな、とろけるような瞬間 だった。 両陛下は一時間もの長い間パーティーにおられ、みんな列をつくっ てご挨拶をした。 私は皇后陛下の列に並び、雅子さまの愛子さまご出産前の ことで、そのお祝いを申し上げたが、なんとも品のある方だと感じた。 一大 学の一運動部の祝賀会に、天皇皇后両陛下がおいでになって、このようになさ った。 小泉信三先生を体感として知った。

 小泉先生の文章力に魅かれて、真似をした。 幼稚舎の雑誌『仔馬』に、早 慶戦の応援態度が酷いと、小泉風のタッチで書いたら、山内慶太さんから真似 をしましたね、と連絡があって、お付き合いが始まり、2004(平成16)年随 想集『練習は不可能を可能にす』(慶應義塾大学出版会)を共に編んだ。 その 年8月、次女小泉妙さんから小泉先生の資料、遺品多数が福澤研究センターに 寄贈され、それぞれについてのエピソードが実に興味深く、埋もれさせるのは もったいないと、都倉武之さんも加わった三人で、妙さんからの聞き書きを2 年間、計26回行った。 毎月、表参道のお宅で、おしゃれで素敵な妙さんの 濃やかな心配り、正確な記憶、豊富な内容の知識や話題、小泉家、阿部家の大 家族の経歴や出来事について、優しい口調で、つまびらかに語られるシャワー を浴び続けた。 2008(平成20)年小泉妙著、山内・神吉・都倉編『父 小泉 信三を語る』(慶應義塾大学出版会)刊。 小泉信三先生に偉大さと親しみを感 じ、先生と同じに自分が父を早く亡くしていたこともあり、先生を自分の父の ように錯覚した。 妙さんは祖母にあたる年代だが、先生を父とすると、私と 妙さんの関係はどうなるのか。 そんな思いを妙さんにお伝えするのを遠慮し ていたが、手紙に書いた、慶應義塾の便箋と封筒で…。 早速、妙さんに叱ら れた「父が一番嫌いだったことです」と、以来妙さんが怖かった。 今度は鳩 居堂の便箋で謝った手紙に、妙さんは、父を親と思ってかまいません、私とは よい友達、年の離れた姉弟でかまわない、と返事を下さった。                              (つづく)