『文鳥』「昔し美しい女を知つて居た。」2016/10/27 06:39

 ドラマ『夏目漱石の妻』を見て、誰もが読んでみたくなる漱石の作品は、『坑 夫』と『文鳥』だろう。 青年が、自分の身の上を小説に書いてもらいたいと 訪ねて来る。 東京のしかるべき家の息子なのだが、家出して、ひょんなこと から足尾銅山で働いたというのだ。 鏡子夫人の姪で、家事見習いにきている 山田房子(黒島結菜)が好意を持つ。 語りもやった黒島結菜(ゆいな)は、 大河ドラマの『花燃ゆ』で高良健吾のやった高杉晋作の妻や、みずほ銀行の「い いと思います」と言い切るCMで、顔は知っていた。 このドラマでも「いい と思います」みたいなセリフがあった。 そういえば青年役の満島真之介は、 松重豊の出る名刺管理サーピスのCMで、「僕、満島です」「それさぁ、早く言 ってよぉーー」の満島、満島ひかりの弟だそうだ。

 脱線した。 青年が『坑夫』のもととなる話を漱石に聞かせたことで、親し くやって来るようになり、漱石の書斎に上がり込んで、勝手に『文鳥』の原稿 を読んでしまう。 そして発表前の原稿など読んだこともなかった鏡子夫人に 向って、「昔し美しい女を知っていた」ということが書いてあると言う。 夫人 は漱石に、読ませてくれと頼むが、今まで読ませたことがあるかと拒絶されて、 取り合いの喧嘩になるのだった。

 『文鳥』を読みたくなって、重い『漱石全集』第八巻を机の下から、ひっぱ り出そうとして、ぎっくり腰になった。 明治40(1907)年4月朝日新聞に 入社、『虞美人草』を連載した。 翌年1月から4月まで『坑夫』を連載した が、6月13日から21日、『文鳥』が大阪朝日新聞単独で連載された。 そもそ も漱石を朝日新聞に招聘しようと発案したのは、大阪朝日の主筆・鳥居素川だ ったらしい。 東京・大阪両朝日の話し合いで、一応両方に掲載されることに なったが、大阪単独のものもあり、『京に着ける夕』『文鳥』がそれだという。

 「文鳥」を読む。 十月(実際は明治40年9月29日)早稲田南町七番地に 引っ越した漱石の家に、鈴木三重吉(当時、東京帝国大学英文科三年生)がや って来て、文鳥を飼えと言い、五円札を持って行って、買って来た。 三重吉 の小説『三月七日』に、文鳥は「千代々々」と鳴くとあって、三重吉は今に馴 れると屹度鳴きますよ、と受合って帰って行った。 なるほど高く「千代」と 鳴いた。 餌の粟をやる。 「文鳥はつと嘴を餌壺の真中に落した。さうして 二三度左右に振つた。奇麗に平(なら)して入れてあつた粟がはら\/と籠の 底に零れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉の所で微(かすか)な音がする。其の音 が面白い。静かに聴いて居ると、丸くて細やかで、しかも非常に速(すみや) かである。菫(すみれ)程な小さい人が、黄金の槌で瑪瑙(めのう)の碁石で もつゞけ様に敲いて居る様な気がする。」 まさに「花鳥諷詠」「客観写生」の 名文である。 歳時記の「菫(すみれ)」の例句として、きっと取り上げられて いる漱石の句に、<菫程な小さき人に生れたし>がある。 明治30(1897) 年の作だ。

 問題の鏡子夫人に読ませたくなかった部分である。 「昔し美しい女を知つ て居た。此の女が机に凭(もた)れて何か考へてゐる所を、後(うしろ)から、 そつと行つて、紫の帯上げの房になつた先を、長く垂らして、頸筋の細いあた りを、撫で廻したら、女はものう気(げ)に後をむいた。其の時女の眉は心持 八の字に寄つて居た。夫(それ)で目尻と口元には笑が萌して居た。同時に恰 好の好い頸と肩迄すくめて居た。文鳥が自分を見た時、自分は不図此の女の事 を思ひ出した。此の女は今嫁に行つた。自分が紫の帯上でいたづらをしたのは 縁談の極つた二三日後である。」

 「昔紫の帯上でいたづらをした女が、座敷で仕事をしてゐた時、裏二階から 懐中鏡で女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだ事がある。女は薄紅くなつた 頬を上げて、繊(ほそ)い手を額の前に翳しながら、不思議さうに瞬(まばた き)をした。此の女と此の文鳥とは恐らく同じ心持だらう。」

「此の女」は、ドラマにも出て来た大塚楠緒子(くすおこ)だろう。 ドラ マで楠緒子役の壇蜜は、ちょっとイメージが違う気がした。

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