中根東里と司馬遼太郎の栃木・佐野 ― 2017/12/16 07:24
さらに『日本史の内幕』で興味を持ったのは、以前、磯田道史さんの『無私 の日本人』(文春文庫)で読み、ブログにも書いた中根東里と、司馬遼太郎の縁 についての話だった。 私が書いたのは、
「等々力短信」第1072号 2015(平成27).6.25. 磯田道史著『無私の日本人』
http://kbaba.asablo.jp/blog/2015/06/25/7679732
天才儒者・中根東里、知られざる大詩人<小人閑居日記 2015.7.2.>
http://kbaba.asablo.jp/blog/2015/07/02/
中根東里(1694~1765年)は、「徳川開闢以来、稀有の才である」といわれ た儒者だが、下野国の佐野の「植野(うえの)」という小さな村に庵を結んで、 寺子屋の師匠となり、子供たちを教えて暮した。 中根の死後、寺子屋だけが 残り、それが明治になって植野小学校、植野国民学校と改称された。
敗戦の色が濃くなった昭和20(1945)年6月、この学校に戦車隊が移駐し てきて、将校たちが学校の裁縫室に寝起きした。 この将校の中に福田さんと いう人がいた。 まだ中根のいた庵は残っており、福田さんは、その横を散歩 しては、植野の村人と歴史の話をしていた。 この福田さんが、どの程度まで 中根の話をきいたのかはわからない。 ただ、ひとついえるのは、戦後この福 田さんが中根のように心をこめて文章を書きはじめたことである。 福田さん のペンネームを「司馬遼太郎」という、と磯田道史さんは書いている。
司馬遼太郎さんは、『この国のかたち』、4「“統帥権”の無限性」に、佐野の ことを書いている。 ソ連の参戦が早ければ、その当時、満洲とよばれた中国 東北地方の国境の野で、ソ連製の徹甲弾で戦車を串刺しにされて死んでいたは ずだが、その後、日本にもどり、連隊とともに東京の北方、栃木県の佐野に駐 屯していた。 もしアメリカ軍が関東地区の沿岸に上陸してくれば、銀座のビ ルのわきか、九十九里浜か厚木あたりで、燃えあがる自分の戦車の中で骨にな っていたにちがいない。 そういう最期はいつも想像していた、という。
あの当時、いざという時、戦車隊が南下して、東京方面へ向かう道路は二車 線しかなかった。 東京方面から北関東に避難してくる国民やその大八車で、 道という道がごったがえすにちがいない。 かれらをひき殺さないかぎり、ど ういう作戦行動もとれないのである。 さらには、そうなる前に、軍人より先 に市民たちが敵の砲火のために死ぬはずだった。 何のための軍人だろうと、 司馬さんは思った。
敗戦の数カ月前、司馬さん(福田さん)たちがいた宿舎は小学校で、まずや ったのは、敵の空襲からの被害を避けるために付近の山々に穴を掘って戦車を かくすことと、校庭に小さな壕(ごう)を掘って、対空用の機関銃座をつくる ことだった。 その作業中、司馬さんはしきりに謡曲の『鉢の木』のことをお もった、という。
鎌倉のむかし、無名の旅の僧(実は北条時頼)のために宿をし、鉢の木を焚 いて暖をとらせた牢浪の佐野源左衛門尉常世のことである。 源左衛門尉がわ び住まいしていた佐野とはこの土地ではないかと思うと、まわりの山河が泌み 入るように愛おしくなった。
その後、場所については異説があることを知ったが、この時期はこここそ“佐 野のわたりの雪の夕暮”のあの佐野であると思いこんでいた。
やがては、源左衛門尉やその妻、あるいは平明な良心だけを政治の心にして いた時頼などが、司馬さんの心のなかで歴史的な日本人の代表のように思われ てきた。 というより、すでに日本に帰りながら、日本のことが恋しくなって いた。 さらにいえば、自らが身を置いている進行中の日本が本当の日本なの かと思ったりした。 降伏後も、数週間、この野ですごした。
(日本や日本人は、むかしから今のようなぐあいだったのか) という茫々 とした思いを持った。 ひょっとするとむかしの日本や日本人はちがっていて、 昭和という時代だけがおかしいのではないか、とも思ったりした。 司馬さん は、そう書いている。
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