「王政復古」と明治の国家神道2018/02/09 07:15

 慶應3年12月9日、朝廷から「王政復古の大号令」が発せられた。 徳川 慶喜は大政奉還をしても、諸侯会議の首座(盟主)になれる者はいないから、 当然自分がなれるだろうと読んでいた。 武力討幕派の薩長や岩倉具視らが、 これをくつがえす「王政復古」のクーデターだった。 天皇親政による新政府 は、摂政、関白、京都所司代など、旧幕府時代の諸職制を廃止し、総裁、議定、 参与の「三職」を設置した。 総裁には有栖川宮、議定には皇族や討幕派の公 卿および御所警備にあたった薩摩、尾張、越前、土佐,安芸の五藩主、参与に は岩倉、西郷、大久保らが任命された。 当日夜の小御所会議で、徳川氏の辞 官、納地をめぐる論戦の末、岩倉を中心とする討幕派が主導権を握った。 こ の情勢に憤慨した会津、桑名藩兵との鳥羽伏見の戦いで勝った新政府は、その 基を固め、明治新政府へと発展する。

 1月25日の「等々力短信」第1103号に「俵元昭さんと「石州神楽」研究賞 創設」を書いたら、友人に「明治の神道国教化以来、神職が神楽舞を禁じられ た」というのは、どういうことなのか、と聞かれた。

近所の図書館で岡田莊司編『日本神道史』(吉川弘文館)を見つけた。 II 神 道の歴史、五 新たな神道体制の確立 1 明治祭祀制 の「日本の近代化と 神道」に、こうあった。 担当は、斎藤智朗(ともお)國學院大學准教授。

 「慶應3年(1867)12月、「王政復古の大号令」が発せられて、天皇親政に よる新政府が樹立し、神武天皇創業のはじめに基づく「復古」が唱えられた。 また明治元年(1868)3月には、天皇親祭による国是五箇条の御誓祭が施行さ れ(五箇条の御誓文)、諸外国との交流を通じて近代化を成し遂げる「維新」が 示された。こうした「復古」と「維新」という、いわば二律背反ともいえる二 つの理念に基づいて成立した近代日本の国家体制の下、神道はそのかたちを大 きく変えることとなった。」

 「近世以来の思潮を受け、神道と仏教とを元の純粋な有り様に戻すべく、神 道と仏教との混淆を禁止した一連の神仏分離政策が実施され、神社は「国家の 宗祀」として国家管理の下で社格、祭祀、神職などの関係するすべての事柄を 法制度により規定されることになった。加えて「神道は宗教にあらず」とする 神道非宗教論に基づき、仏教・キリスト教とは異なる扱いを受けた。」

 「しかし、非宗教としての神道は同時に、文明開化に伴う近代西洋の科学主 義を基調とした思想や政策・法制度を背景に、その徹底した合理化が推進され ていった。そして、このような神道の合理化は、結果的に「非宗教」としての 神社と、「宗教」としての教派神道から分派・独立、あるいは影響を受けた神道 系新宗教(神道系諸派)の成立を導くことになった。」

 ネットで「国家神道」を探したら、出雲大社紫野教会のホームページに、中 島隆広教会長の「国家神道とは何か」という文章があって、そのへんの事情が、 わかりやすかったので、明日紹介したい。

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