臼井六郎、山岡鉄舟の春風館で修行2018/02/18 07:19

 吉田悟助が執政の藩庁は、暗殺をした干城隊に慎むように言い渡しただけで、 お咎めなしとし、亘理については、自分の才に溺れ、我儘の振舞いが多く人望 も薄かったため、非業の最期を遂げたのも自ら招いたことでやむを得ない、と の沙汰を下した。 臼井家は亘理の弟助太夫が家督を継いだが、藩は家禄を五 十石減ずる過酷さだった。 父を斬ったのは山本克己、母を手にかけたのは萩 谷伝之助とわかったが、仇討ちを願い出ても藩は認めようとしなかった。

明治9(1876)年夏、18歳になった六郎は、秋月の南にある三奈木村の小学 校の教師を辞め、東京に出た。 3年前の明治6年2月には「仇討禁止令」が 出ていた。 文部省に勤め芝に住む叔父、上野四郎兵衛は、山本克己が一瀬克 久と名のって司法省に出仕し、名古屋裁判所の判事をしているらしいと話した。  明治9年10月、熊本の士族神風連が鎮台を攻撃する乱を起こすと、秋月でも 士族が呼応して「秋月の乱」を起こすが、鎮圧された。 四郎兵衛は六郎が修 行をすれば雑念も晴れるかと、春風館・山岡鉄舟の道場を紹介した。 鉄舟は 「武士の仇討ちは私怨を果たすにあらず、天に代わって邪を討ち、無念の最期 を遂げた者を成仏いたさせるのだ。憎いと思う心でできることではない」「一度、 死ね。死ねば、憎しみも消える。そのうえで、おのれがなすべきことが見えて こよう。もはや武士の魂の刀も捨てよ」と言い、入門を許してくれる。

明治10年の西南戦争が終結して、翌11年2月、六郎は一瀬克久が静岡裁判 所の甲府支所長になっているのを知る。 鉄舟は六郎と立ち合い、「行かねばな らぬわけがあるのだろう。そう思い定めたのなら、わしは止めぬ」「そなたのい まの腕前は一振りの刀とまでは言えぬ。せいぜい、一本の針に過ぎないが、狙 い過たず、相手の急所を刺せば敵を仕留めることはできよう。そしてなにより、 いまの世に入用なのは不平士族を抑え込んだ政府に警鐘を鳴らす、一本の針だ」 と、屋敷を出るのを許してくれた。

甲府の宿屋に逗留して、一瀬克久のことを探るが、東京に出張中とかで、宿 の若い女中のお文から逆に巡査が六郎の意図を知って探っていると知らされ、 父の博打の借金で女郎屋に売られそうなので、東京へ連れて逃げてくれと、頼 まれる。 お文は下谷に借家を見つけ、通いの女中の仕事を始める。 鉄舟の 所にも、叔父の家にも戻れぬ六郎は、とりあえずお文と同居することになった。  8月に近衛砲兵大隊の反乱、竹橋事件が起きた11月になって、お文が六郎に埼 玉県熊谷町の裁判所雇員の仕事を見つけてきた。 裁判所の雇員なら、一瀬の 消息を知る手立てもあるかもしれない、山岡鉄舟の書生だったことで採用とな り、二人は熊谷へ移る。 年が明けて明治12年、一瀬の消息はなかなかつか めない。 7月、持ち帰った裁判所の書類を家に忘れて、昼休みに戻った六郎 は、お文が男と話しているのを聞く。 お文は巡査に命じられて、自分を仇討 ちから遠ざけようとしていたのだ。 空を見上げると、鉛色の曇天だった。 六 郎は、お文が好きだったと悟るが、熊谷を去った。(つづく)

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