三島弥太郎、アメリカ留学、第8代日銀総裁2019/02/10 08:06

 三島弥太郎は、大河ドラマ『いだてん―東京オリムピック噺』で、横浜正金 銀行副頭取として登場した。 横浜正金銀行といえば、福沢諭吉が参議兼大蔵 卿の大隈重信と連携して設立に関わり、福沢と親しい中村道太が初代頭取、門 下の小泉信吉(のぶきち・小泉信三さんの父)が初代副頭取に就任して、1880 (明治13)年2月に営業を開始した銀行である。 株主や行員には慶應義塾関 係者が多く参加した。 外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利益 を軽減するよう現金(正金)で貿易決済を行うことを主要な業務としていた。

 1877(明治10)年の西南戦争を機に政府紙幣の増発によりインフレが生じ、 また輸入超過により正貨(銀貨)が流出して、紙幣と正貨との格差が拡大した。  福沢も大隈も、外国商社・外国銀行に掌握されていた「商権回復」のために正 貨の安定的供給を担う貿易金融機関の設立が必要であるという認識で一致して いたのである。

 三島弥太郎は、1867年5月4日(慶應3年4月1日)三島通庸の長男とし て鹿児島城下高麗町上の園に生れた。 7歳の時、東京神田の小川町学校入学、 その後すぐに同人社分校に通い、9歳の時、近藤真琴の塾で学んだという。 9 歳というと1876(明治9)年頃だから、近藤真琴の塾とは「攻玉社」で、慶應 義塾が1871(明治4)年三田に移転した後の芝新銭座(現、港区浜松町1丁目) の土地と建物を300両で譲り受けたものであろう。 父親が山形県令の13歳 の時、山形師範学校へ入り、15歳で卒業。 17歳で駒場農学校に入り、18歳 の時、成績首位により官費生として渡米、西フィラデルフィア中学を経てマサ チューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に入学し、 農政学を学ぶ。 同大学卒業後、コーネル大学大学院で害虫学を学び修士の学 位を受けるが、神経痛を発症して退学した。

 帰国後、1897(明治30)年貴族院議員に当選、桂太郎の後押しで最大会派 「研究会」の代表者を務め、桂の主唱する鉄道国有化を実現させた。 また議 員生活の傍ら、金融業に深く関与した。 大河ドラマ『いだてん』では横浜正 金銀行副頭取であったが、1911(明治44)年6月、高橋是清の後を継いで、 第8代横浜正金銀行頭取に就任した。 それを第9代水町袈裟六に譲ると(水 町は7カ月で、第10代は井上準之助)、三島弥太郎は1913(大正2)年2月 28日、第8代日本銀行総裁に就任した。 日本で初めての市中銀行の預金金利 協定にも尽力し、第一次世界大戦戦中戦後の激務をこなしたが、1919(大正8) 年3月7日急病により現職のまま逝去した、享年51歳。