三島通庸(みちつね)と那須塩原市の三島神社2019/02/07 07:11

 大河ドラマ『いだてん―東京オリムピック噺』で、日本初のオリンピック選 手として1912年のストックホルム大会に出場したのは、金栗四三の他にもう 一人、三島弥彦(生田斗真)だった。 生田斗真が1月7日の「鶴瓶の家族に 乾杯!」で行ったのは栃木県那須塩原市、鶴瓶と待ち合わせたのが三島神社だ った。 三島弥彦の父、栃木県令を務めた薩摩出身の三島通庸(みちつね)を 祀る神社である。 三島通庸の名は、酒田県令、鶴岡県令、山形県令、警視総 監として知っていた。 庄内鶴岡は父のルーツの地であったし、警視総監時代 には保安条例で福沢諭吉を東京から追放しようとして、福沢の動静を調べてい たからである。 その三島通庸が、神社に祀られているとは、想像もしなかっ た。

 栃木県神社庁のサイトで「三島神社」を見たら、「(みしまじんじゃ/奥宮母 智丘神社)御祭神三島通庸命は、至誠、不撓不屈の精神を持ち、詩人・哲学者 であり、明治維新に際しては、志士として活躍。西郷隆盛公に招かれて出府、 東京府権参事をはじめ、酒田山形県令、福島県令、栃木県令を歴任、那須野ヶ 原の開拓、道路の開削・改良・那須疎水事業の援護等、地方産業の発展に地方 長官として尽力。/又、警視総監としても卓越した実績をあげる。特旨をもっ て、華族に列し、子爵を授けられた。塩原温泉祭には、塩原地域の恩人として、 又 神社の例祭には子孫の方々が招待されている。」とある。

 三島通庸を辞書や百科事典類で見ると、「福島事件・保安条例施行など、自由 民権運動弾圧に奔走」(『広辞苑』)、「地方開発を強行して、福島事件・加波山(か ばさん)事件を起こし、自由党員を弾圧」(『大辞泉』)、「1874(明治7)年酒田 県令に就任、ワッパ一揆を押える。1882(明治15)年福島県令になると土木 工事による苛税を強制して福島事件を、1883(明治16)年には加波山事件を、 それぞれ誘発して弾圧。1885(明治18)年警視総監となると1887(明治20) 年には保安条例を執行して570人を東京から追放するなど終始民権運動を弾圧 した。」(『百科事典マイペディア』)と、はなはだ評判が悪く、ワッパ一揆や福 島事件や加波山事件というのが出てくる。

 ワッパ一揆というのは、明治初期、現在の山形県庄内地方(当時は酒田県) に起こった貢祖過納金の払戻しを求める農民闘争。 1874(明治7)年農民は 雑税廃止と石代納許可、帳簿の公開、過納租税の返還を県に要求、政府は三島 通庸を酒田県令に任命して大弾圧を試みたが、翌1875(明治8)年酒田の商人 森藤右衛門らの建白により元老院が調査、1878(明治11)年農民に有利な判決 が下ったが、以後も三島の弾圧は続いた。 ワッパは農民の木製弁当箱のこと で、過納金を配分すればワッパ一杯分にもなるほどということで名付けられた。

 福島事件は、三島通庸が1882(明治15)年に福島県令になり、会津若松か ら山形・栃木・新潟各県に通じる三方(さんぽう)道路の工事を計画、福島県 会(議長河野広中(ひろなか))と衝突し、抵抗運動を組織した県下自由党員や 農民に弾圧を加えた事件で、会津の農民が道路建設の夫役に反対し警官と衝突 した際、河野らも検挙され、国事犯に問われた。

 加波山事件は、自由民権運動の一つで、1884(明治17)年県令三島通庸ら の暗殺を計画していた栃木・茨城・福島の自由党急進派16名が、9月に茨城県 加波山を拠点に蜂起したが、間もなく鎮圧された事件。 富松正安ら7名が死 刑に処された。

 その流れからは意外に感じるけれど、那須塩原市に「三島神社」があるのは、 「那須野ヶ原の開拓、那須疎水事業、塩原温泉地域の開発」への尽力に対する 地元の感謝なのだろう。