咸臨丸の秘密〔昔、書いた福沢89〕 ― 2019/07/30 07:21
咸臨丸の秘密
<等々力短信 第875号 2000(平成12).4.25.>
『福翁自伝』「初めてアメリカに渡る」の章に、万延元年(1860)咸臨 丸の航海を「日本開闢以来初めての大事業」で、薩摩の大島沖で難船し救助さ れていた米測量船のカピテン・ブルックら数名を送り帰すために同乗させたも のの、「蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目に して」「少しも他人の手を借らずに出掛けて行こうと決断したその勇気といい その伎倆といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実 だろうと思う」「航海中は一切外国人のカピテン・ブルックの助力は借らない というので、測量するにも日本人自身で測量する」とある。
1月19日(陽暦2月10日)浦賀を出航して、冬の北太平洋をサンフラン シスコへ向った咸臨丸の航海は、嵐が連続する中を進むことになった。 中浜 万次郎が通訳として咸臨丸に乗り組んでいたのは、幸運だった。 万次郎は捕 鯨船で世界の海を航海した経験者だから実地の「伎倆」は十分だし、英語がし ゃべれたのでブルック一行11名と日本人士官水夫との連絡調整に当ることが できた。 日本の士官水夫は沿岸航海の経験があるだけで、荒天作業には手も 足も出なかった。 富田正文先生の『考証 福沢諭吉 上』によれば、ブルッ クの航海日記(『万延元年遣米使節史料集成』第五巻に福沢の孫、清岡暎一先 生の訳で収められているそうだ)や、木村摂津守の従者斎藤留蔵の日記などか ら、嵐の中では、ブルックが自分の部下を動員し、万次郎の協力も得て、咸臨 丸を操船させるほかなかったというのが、実情だった。 富田先生は、木村摂 津守の「奉使米利堅(メリケン)紀行」をはじめとして、日本人側士官たちの 記録に、ほとんどそのアメリカ人たちの働きを書きとめたものがないことを、 不審なことであるといっている。
富田先生は、斎藤留蔵の日記を引用し、福沢が「斎藤と同じく木村の従者で あり、観察眼の鋭い性質であるから、同僚がこれだけ見ている事実に気のつか ない筈はないと思われるが、何故かブルック以下のアメリカ人たちの助けは少 しも借りなかったと傲語しているのは諭吉でさえもまた、お国自慢のサムライ 根性を免れることができなかったのかと、私はなんとも割り切れないものを覚 える」と正直に書いておられる。 このあたり、富田先生らしくて、じつに清 々しい。
もし咸臨丸に中浜万次郎とブルック達が乗っていなければ、勝海舟も福沢諭 吉も、太平洋の藻屑と消えていたかもしれない。 その後の日本の歴史は、ま ったく違ったものになっていたであろう。
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