谷中と遣欧使節〔昔、書いた福沢79〕2019/07/20 07:10

               谷中と遣欧使節

        <等々力短信 第774号 1997(平成9).6.5.>

 先日の谷中掃苔で、その墓を訪れた、桜痴福地源一郎と箕作秋坪は、福沢諭 吉が文久2(1862)年の幕府遣欧使節の一員としてヨーロッパへ出かけた 時の、メンバーだった。 箕作秋坪の墓には、偶々子孫らしい方がお詣りして いて、福沢諭吉協会理事の竹田行之さんが「箕作家は明治時代に学者を沢山輩 出した三つの家の一つで」と説明するのを、嬉しそうに聞いておられた。 岩 波書店の『図書』に、最近続いて、この遣欧使節団と福沢諭吉についての興味 深い記事が出たので、ちょっとふれておきたい。

 パリで福沢は一冊の手帳を買った。 黒革表紙、見返しと小口がマーブル模 様の、この縦長の手帳に、福沢はヨーロッパ旅行中の見聞を克明に記録した。 のちに「西航手帳」とよばれるこの手帳が、明治日本を動かすシナリオになっ た『西洋事情』のもとになったことは、よく知られている。 大手前女子大学 の松村昌家さん(英文学)は『図書』3月号の「ロンドン万博会場の幕府使節 団」で、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」や風刺週刊誌『パン チ』に描かれた遣欧使節一行のことを紹介している。 『パンチ』1862年 6月7日号の挿絵は、なんと、縦長の「手帳」に何やら熱心に書き込んでいる サムライ、つまり福沢諭吉の姿をとらえていたのであった。

  『図書』6月号「写本から印刷へ-グーテンベルクと印刷文化の誕生 (一)」で、慶應義塾大学の高宮利行さん(英文学)は、昨年春慶應の図書館 が購入したグーテンベルク聖書と福沢諭吉について書いている。 西洋で最初 の活版印刷本として知られるグーテンベルク聖書(1頁に42行の本文が組ま れ「42行聖書」と呼ばれる)だが、現存するのは48部、その内グーテンベ ルクが活躍したマインツで印刷、装飾、製本されたものは僅かに3部、慶應が 入手したのはその一つだという。 福沢は、1862年8月14日(陽暦9月 7日)ロシアのペテルスブルグで帝国図書館を訪れ、「西航手帳」に「144 0独逸にて出板/ラテン語の書此を/欧州第一の板本/なりと」と記録してい る。 ペテルスブルグの帝国図書館が1858年にミュンヘンの国立図書館か ら購入したグーテンベルク聖書を、福沢は見ていたのだ。 高宮さんが、サン クトペテルブルグの全ロシア図書館に照会したところ、8月25日付の訪問者 名簿に福沢諭吉や箕作秋坪など7名の署名が残っていたという。 余談だが、 この稿で高宮さんが、この遣欧使節団の団長も、咸臨丸の時と同じ木村摂津守 としているのは勘違いだろう。