渡邊大門著『清須会議』を読む2020/08/30 07:40

 先月からNHKスペシャル「戦国~激動の世界と日本」「(第1集)秘められた征服計画 織田信長×宣教師」「(第2集)ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ」をきっかけにして、さらに浅見雅一著『キリシタン教会と本能寺の変』(角川新書)を読んだり、お城から戦国武将を考えたテレビ番組などについて、いろいろと書いてきた。 すると、「秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?」という副題の本の広告が目に入った。 渡邊大門(だいもん)著『清須会議』(朝日新書)である。 渡邊大門さんは、1967年生まれの歴史学者、関西学院大学文学部史学科卒、佛教大学大学院博士後期課程修了、現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。

「信長亡き後、光秀との戦いに勝利した秀吉がすぐさま天下人の座についてわけではなかった。秀吉はいかにして、織田家の後継者たる信雄(のぶかつ)、信孝を退け、勝家、家康を凌駕したのか。「清須会議」というターニングポイントを軸に、天下取りまでの道のりを検証する。」というのだ。 まことに興味深いテーマではないか。

天正10(1582)年6月2日未明、明智光秀は「本能寺の変」で織田信長と、その長男信忠を討った。 毛利攻めで備中高松城を攻囲していた羽柴秀吉は、その報に接し、それを秘して毛利と和睦、4日朝(6日説もある)出発した「中国大返し」で、13日昼頃決戦の地・山崎に到着した。 「中国大返し」は、尋常でない移動スピードが強調されるが、備中高松城から山崎まで約170キロだから、現在ではそれほどもなかったという否定的見解が強いそうだ。 ただ「本能寺の変」直後、織田家臣団で光秀を討つべく京都に向かったのは唯一、羽柴秀吉だけで、その迅速な行動は、その後の織田家臣団の立ち位置で重要な意味を持った。 当時の状況、「北陸」―柴田勝家、佐々成政、前田利家、佐久間盛政が加賀、能登、越中の平定中。 「関東」―滝川一益、上野の厩橋。 「四国」―四国攻めに6月3日渡海の予定で、織田信孝(信長の次男)以下、丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄(信長の甥で、光秀の女婿)が摂津住吉とその周辺で待機。 「摂津」―中川清秀、高山右近が、秀吉の毛利攻め救援に向かうべく待機。 この中で京都に近かった、織田信孝(二十代の青年武将)を支える重臣も、中川清秀、高山右近も、京都に急行して光秀を討とうとはしなかった。

 秀吉は前日の軍議で、高山右近を先陣に決定し、大山崎に陣を取るように命じた。 秀吉が摂津富田に着陣すると、すでに光秀軍との前哨戦が始まっていた。 光秀が駐留していた勝竜寺城(京都府長岡京市)付近では、両軍が鉄砲を撃ち合っていたのだ。 13日朝、富田を発ち、昼頃、山崎で信孝の軍と合流、信孝の号令で筒井順慶が出撃すると、光秀との戦いが本格化した。 夜になると光秀軍が攻撃してきたため、反撃、摂津衆の高山右近、中川清秀、池田恒興は、地元の地理にも詳しかったので戦いを有利に進め、秀吉軍はたちまち光秀軍を敗北へと追い込んだ。 光秀軍は勝竜寺城へ逃げ帰ったが、そこも秀吉軍に包囲され、即座に脱出した。 大敗北した光秀は、近江坂本城を目指したが、14日小栗栖(おぐるす・京都市伏見区。醍醐、山科とする史料もある)の竹藪で土民の落武者狩りに遭い、非業の死を遂げる。

 戦国時代は清洲でなく清須と表記されていたので「清須会議」にしたそうだが、従来の「清須会議」は映画、テレビドラマ、小説などで、こう描かれてきた。 6月27日、尾張清須城に織田家家臣の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人が集まり、信長・信忠没後の後継者を誰にするか話し合われた。 秀吉は、信忠の遺児・三法師(さんぼうし、のちの秀信)を強く推し、信孝(信長の三男)を擁立しようとした勝家の主張を退けた。 主導権を握った秀吉は天下取りの道を歩みだし、その後、信孝、勝家を葬り去り、小牧・長久手の戦いで信雄(信長の次男)、徳川家康を屈服させた。 これが一般的に知る「清須会議」の概要である、のだが…。

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