秀吉、関白・太政大臣となり、諸大名を官位で序列化2020/09/12 07:04

渡邊大門さんの『清須会議』を読んで、「天下」の意味、「五畿内」から「日本全国」へ<小人閑居日記 2020.9.4.>で見たように、秀吉は太政大臣に就任することにより、公家の頂点に立ち、一気呵成に朝廷を取り込むことに成功し、朝廷を利用することにより、自身の権力を強化した。

平安時代以降、天皇は早い段階で譲位して治天の君(上皇)となり、院政を行うのがスタンダードだった。 ところが、戦国期の天皇は財政的な問題などにより、長らく譲位ができず、本来の上皇になることができなかった。 譲位という正親町天皇の長年の宿願を叶えることは、豊かな財政の秀吉にしかできなかった。 天正14(1586)年11月になると、晴れて正親町天皇が退位し、新天皇に後陽成天皇が即位した。 その翌月に秀吉は太政大臣に就任し、「豊臣」姓までも与えられた。 関白は令外官(律令の令に規定されていない官)だったので、秀吉は太政大臣に就任することにより、公家の頂点に立った。

翌天正15(1587)年1月、関白・太政大臣の秀吉のもとには、諸大名だけでなく、公家衆も新年の参賀に訪れるようになった。 翌年9月、待望の聚楽第が完成し、以後、毎年正月になると、聚楽第か大坂城で年始の礼が行われた。 天正16(1588)年、後陽成天皇が聚楽第に行幸した際、秀吉は諸大名に対して、天皇と自身に忠誠を尽くし、臣従することを誓約させたのだ。 秀吉は、一気呵成に朝廷を取り込むことに成功し、朝廷を利用することにより、自身の権力を強化したのだ。 秀吉への参賀は、文禄元(1592)年に関白を秀次に譲り、「太閤」と称せられるようになっても続いた。 太閤とは、関白を子に譲った人という意味であり、秀吉は太政大臣の職を辞めたわけではなかった。 秀吉が公家社会から離れていないことに注意すべきだ。

秀吉は、公家や配下の武家を統制するため、官位を用いて序列化などを試みた。 信長は、自身が積極的に官位を活用した形跡が乏しい。 通常、官位は朝廷の作成する口宣案により授与された。 天正13(1585)年7月秀吉が関白に就任すると、家司となる扈従(こじゅう、従者)が必要になり、信頼できる直臣の中から、12名を選び出し、従五位下・諸大夫に任命した。 口宣案の発給が確認できる者も存在する。 さらに同年10月、秀吉が朝廷に執奏することにより、秀吉一門や有力な諸大名が一斉に公家成(くげなり)をした。 公家成とは五位以上になって、昇殿を許される身分になることである。 秀吉は自らが関白などの重職に就任することで、配下の大名の官位執奏権を手にしたのだ。 そして諸大名を官位により序列化し、視覚化(見える化)を行った。

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