福沢諭吉と万国公法、国際法2021/08/17 07:00

 もう一つ、「マクラ」を振っておく。 4月25日になって、大河ドラマ『青天を衝く』を見て、「等々力短信」第1142号に「福沢諭吉と万国公法」を書いた。

 大河ドラマ『青天を衝く』第6回「栄一、胸騒ぎ」の「紀行」で、下田の玉泉寺のハリスの顕彰碑を渋沢栄一が建てたことを知り、渋沢栄一記念財団のホームページを見たら、「タウンゼンド・ハリス記念碑建設」(渋沢栄一伝記資料)となっていた。 ずっとタウンゼント・ハリスだと思っていたのだが、「タウンゼンド・ハリス」(Townsend Harris)だった。 安政元(1854)年3月のペリーとの日米和親条約締結の結果、安政3(1856)年7月、下田に着任したアメリカ総領事のハリスは、「日米修好通商条約」の締結をもくろんで、大統領の国書は江戸にいる国王(将軍)がみずから受け取るべきだと主張し、交渉を重ね、江戸出府を実現する。 箱根関所通過の際の点検拒否、江戸の宿舎の護衛問題などで、外国使節に対する応接も「各国共通の礼式」を用いるべきだと主張した。 堀田正睦老中筆頭以下の外交担当者は、修好通商条約交渉の過程で、ハリスから列強の諸国家「間」には国際政治があり、それを統制し調整すべき国際法(万国公法)というものが存在するという事実を、初めて教えられたのであった。

 福沢諭吉は、どうか。 『福澤諭吉事典』の事項索引には「国際法」も「万国公法」もない。 もっとも安政元年は蘭学に志し長崎に出た年だし、安政3年は大坂の適塾にいて、腸チフスにかかった年。 修好通商条約批准交換の咸臨丸渡米と帰朝後の翻訳方出仕が万延元(1860)年だ。 『西洋事情』を『福沢諭吉選集』第一巻で見る。 初編は慶應2(1866)年6月脱稿、初冬刊。 慶應4(1868)年夏刊の外編巻之一に「各国交際」がある。 「世の文明に進むに従て一法を設け、これを万国公法と名(なづ)けり。抑(そもそ)も世上に一種の全権ありて万国必ず此公法を守る可しと命を下すに非(あら)ざれども、国として此公法を破れば必ず敵を招くが故に、各国共にこれを遵奉せざるものなし。各国の間、互に使節を遣(やり)て其国へ在留せしむるも、其国々互に公法の趣意を忘るゝこと無(なか)らんが為めなり。故に両国の間に怨(うらみ)を結ぶと雖(いえど)も、使節は敵国に在留して更に害を被(こうむ)ることなし。」

『選集』第一巻、松沢弘陽さんの解説を読む。 福沢は、日本は国を開いて西洋諸国の「附合」に加わるよう勧めた。 遣欧使節一年の旅で、西洋諸国の国際関係――力と力がしのぎを削る権力政治によって支配されながら、それにもかかわらず「世界普遍の道理」が強国をも弱小国をもひとしく規制しているという構造――を身をもって学んだ。 チェンバーズ『政治経済学』の国際政治論で、権力均衡の原理により、強弱大小異なる諸国が「条約」によって、「各国附合」を取り結ぶことが可能だと学び、「世界普遍の道理」と「万国公法」を信頼すれば、開国は有益で恐れるに及ばないとした。

森靖孝さんを悼む<等々力短信 第1146号 2021(令和3).8.25.>2021/08/17 07:02

 立花隆さんが亡くなった時、<梅雨空や知の巨人とは同い年>と詠んだ。 江田五月さん、一つ上「遠くへ行きたい」のジェリー藤尾さん、年の近い人の訃報には、ドキリとする。 だが4月15日に逝った森靖孝さんのことは、なかなか書けなかった。

 森靖孝さんをよく知ったのは、卒業30年の1994年連合三田会大会準備の実行委員会で記念品部会のトップをされた時で、私は広報のライターだった。 森さんの会議での的確な報告、企画と実現の手際よさに、会議のない零細ガラス工場の私は、目を見張ったものだ。 資生堂取締役国際事業部長で、中国への事業拡大に奮闘中だった。

 その105年三田会の幹事連中を中心に立ち上げられた情報交流会で、後に森さんと世話役をご一緒することになり、お付き合いが深まった。 2001年資生堂の常務になられたので、資生堂パーラーで一万円のカレーのご相伴をしたり、最上階のファロというバーで酒の飲めない私は生涯最高のジンジャエールを味わえたりした。

 工学部管理工学科卒業の森さんが、どういう機縁で慶應義塾のSFC湘南藤沢キャンパスに深い関わりを持つようになったのかは知らない。 SFCの学生で、ベンチャービジネス・新事業の創出や新商品の開発に高い意欲を持つアントルプレナー(起業家)を支援する、メンター三田会を創設し、会長や顧問を務めた。 成城石井中興の祖、石井良明さんを、この支援に引っ張り出した。 その活動から生まれた事業家を、105情報交流会の講師として招いてくれ、ケアプロ(株)社長川添高志さんの「ワンコイン健診の挑戦」、カラフル・ボード(株)CEO渡辺祐樹さんの「慶應発AI(人工知能)技術を活用した、新しい社会創発へのチャレンジ」など、われわれ老輩も斬新な事業の話を聴く機会を得た。 交詢社での会から菊名に帰る森さんとは、よく慶應義塾や福沢先生についての話をした。 メンター三田会に寄せた追悼文で、伊藤公平塾長は、森さんに「(河野)太郎さんが総理大臣、公平さんが塾長になれば、日本と慶應義塾の将来は大丈夫」と言われたと、書いている。 伊藤さんは、森さんと同じく、癌を患い、治癒していた。

 森さんの闘病生活は、壮絶だった。 5年前の膀胱癌発症以来、26回の入退院や数え切れない通院で、内視鏡手術、放射線治療、数種の抗癌剤治療などを続けて来た。 時折頂くメールに、激励や慰めの言葉に窮した。 昨年12月29日には充子夫人が亡くなった。 3月10日にメールを頂いた。 1月8日に余命半年を告げられたが、奥様の納骨も無事に過ぎ、一人息子夫婦と中1男子の孫の思い遣りや気配り、気遣い、優しさに感謝、縁のあった人すべてに「感謝」の気持で一杯。 一足先に逝って、この「至福の時」をプレゼントしてくれた家内は偉大、頭が上がらないとあった。