文久二(1862)年遣欧使節団の通訳2023/05/23 07:00

 福沢諭吉の二度目の洋行、文久2(1862)年の遣欧使節竹内下野守保徳(やすのり)一行の通訳はどうだったか。 懐かしい芳賀徹さんの『大君の使節 幕末日本人の西欧体験』(中公新書・1968年)を見てみる。

 「定役並通詞」(定役(じょうやく)とは、会計・庶務係)に、福地源一郎(21)(天保12(1841)-明治39(1906)年)、立(たち)広作(17)(弘化2(1845)年-明治12(1879)年)。

 「通詞」に、太田源三郎 神奈川奉行所勤務(27)(天保6(1835)-明治28(1895)年)。

 「傭通詞」に、福沢諭吉 外国方翻訳局員・中津藩士(27)(天保5(1835)-明治34(1901)年)。

 「傭翻訳方兼医師」に、箕作秋坪 外国方翻訳局員・津山藩士(37)(文政8(1825)-明治19(1886)年)、松木弘安 外国方翻訳局員・薩摩藩士(30)(天保3(1832)-明治26(1893)年)。

 本隊から2か月遅れで、賜暇帰国のオールコックに同行してロンドンで本体に合流した「調役兼通詞」 森山多吉郎(42)(文政3(1820)-明治4(1871)年)。

 さすがに芳賀徹さんで、福沢諭吉誕生の天保5年12月12日を、西暦の1835年1月10日にして書いていた。 『広辞苑』(少なくとも第六版まで)などは、機械的に天保5年を1834年としているのだ。

 森山多吉郎は、幕府から新しい機密の訓令を授けられて駆けつけてきたが、ロシア使節プチャーチンの長崎来航(1854)、ペリー提督の浦賀再来(同)のとき以来、通詞としてつねに幕府の外交交渉の最先端、最機密の部分に立ち会ってきた文字通りのエキスパートであったから、そのような大事な有用な人物を幕府がだまって自分に同行させたことに、それを申し出たオールコック自身が驚いているほどだという。 森山は船中でもいたるところで友人をつくったほど、外国人との交際に慣れた、きわめてそつのない、聡明で有能な人士だった。

 通詞の中には、フランス語通もいた。 福地源一郎と、一行中の最若年、17歳の立(たち)広作である。 立は、栗本鋤雲や塩田三郎とともに、箱館で、幕末外交史上高名な伝道僧メルメ・ド・カションにフランス語を学んだ、この学問の先覚のひとりだった。

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