ジョン・マン、中浜万次郎の生涯2023/05/20 06:58

 中浜万次郎は、文政10(1827)年~明治31(1898)年。  天保12(1841)年1月5日、土佐宇佐浦から漁船に乗った14歳の万次郎は台風で遭難、5名で漂流、伊豆諸島の鳥島に流れ着いて、143日生き延び、5月9日アメリカの捕鯨船ジョンハウランド号に救助され、仲間4人はハワイで下船する。 船中では船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称で呼ばれた。 万次郎だけは、ホイットフィールド船長に連れられて、捕鯨船基地の港マサチューセッツ州ニュー・ベッドフォードに渡り、隣町フェアヘヴンに住む船長の養子となって、町の学校で普通教育を受けた後、バーレット・アカデミーという程度の高い私塾で3年くらい、高等数学、測量、航海術などの教育を受けた。 19歳のとき、捕鯨船フランクリン号に乗って3年間、鯨を追って世界の海を航海し、一等航海士の資格を得、22歳の1849年9月、ニュー・ベッドフォードの基地に戻った。

 この頃、帰国の意志を固め、さらに帰国の資金を得るためゴールドラッシュのカリフォルニアの金山で働き、嘉永4(1851)年、24歳のとき帰国の途についた。 ハワイで仲間と一緒になり琉球を経て薩摩に到着、島津斉彬に珍重されるが、長崎奉行所で取り調べを受け、翌年土佐藩に送致される。 土佐藩で山内豊信に珍重され、教授館に勤めたのち、嘉永6(1853)年のペリー来航で、幕府に江戸に呼ばれ普請役格に登用されて出仕、旗本となり、江川太郎左衛門の手付として翻訳に従事した。 さらに軍艦操練所教授方となり、通訳なども務め、航海書の翻訳や会話集『英米対話捷径』を刊行した。

 安政7(1860)年、咸臨丸での遣米使節に通弁主任として随行、福沢諭吉と知り合い、アメリカで福沢と二人が「ウエブストルの字引」を一冊ずつ購入したと、『福翁自伝』にある。 中浜万次郎が咸臨丸に乗っていたことの僥倖については、下記に書いている。 東洋文庫オリエント・カフェで、咸臨丸のことなど<小人閑居日記 2019.5.10.> 幕末軍艦咸臨丸〔昔、書いた福沢70〕<小人閑居日記 2019.6.25.> 咸臨丸の秘密〔昔、書いた福沢89〕<小人閑居日記 2019.7.30.>

 その後、小笠原諸島近海で、捕鯨に従事、文久元(1861)年、小笠原諸島などの開発調査に、咸臨丸など四隻で外国奉行水野忠徳に同行する。 元治元(1864)年薩摩藩、慶応2(1866)年土佐藩で英学を教授、明治2(1869)年新政府の徴士(政府に登用されて官についた藩士・庶民の称)として開成学校の中博士となった。 明治3(1870)年普仏戦争視察団として欧州に派遣されるが帰国後、病を得て、以後は療養隠棲生活を送った。 明治31(1898)年11月13日没、71歳。