福沢諭吉、箕作秋坪、松木弘安2023/05/24 07:07

 『福翁自伝』「ヨーロッパ各国に行く」、福沢と箕作秋坪、松木弘安の三人は外国方翻訳局の同僚、年来の学友で互いに往来していたので、遣欧使節団でヨーロッパに行っても、三人一緒に行動し、なんでもあらん限りのものを見ようとしていると、それが幕府の役人たちの目には面白くない。 三使節、正使・竹内下野守保徳、副使・松平石見守康直に次ぐのが、監察使・京極能登守高朗、福沢のいう「お目付という役目で、ソレにはまた相応の属官が幾人もついている。ソレがいっさいの同行人を目っ張子(めっぱりこ)で見ているので、なかなか外国人に会うことがむずかしい」。 ことに福沢、箕作、松木は陪臣で、しかも洋書を読むというから、なかなか油断をしない。 何か見物に出かけようとすると、必ずお目付方の下役がついていかなければならぬというお定まりで、しじゅうついてまわる。 妙な役人がついてくれば、ただうるさい。 うるさいのはマダいいが、その下役が何かほかに用があると、三人も出かけられない。 はなはだ不自由なので、福沢はそのとき、「これはマアなんのことはない、日本の鎖国をそのままかついできて、ヨーロッパ各国を巡回するようなものだ」と言って、三人で笑ったという。

 咸臨丸の時はカリフォルニアで鉄道はなかったが、今度はスエズに上陸して初めて鉄道に乗り、ヨーロッパ各国どこへ行くのも皆鉄道、至る所で歓迎されて、陸海軍の施設、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、倶楽部などはもちろん、病院に行けば解剖も外科手術も見せる、あるいは名ある人の家に晩餐の饗応、舞踏の見物など、まことに親切に案内され、かえって招待の多いのにくたびれるほどだった。 ロシアに滞留中、ある病院で膀胱結石の手術があるという見学の案内があり、箕作も松木も医者だからすぐに出かけたが、福沢は手術中に血を見て卒倒、箕作と松木に、いくじがないと、しきりに笑われ、ひやかされたとある。

 また『福翁自伝』「王政維新」には、ヨーロッパに行った船中(途次のオージン号上)で、福沢、箕作、松木が日本の時勢論をした話がある。 福沢が、「ドウダ、とても幕府の一手持はむずかしい、まず諸大名を集めてドイツ連邦のようにしては如何」というと、松木も箕作も「マアそんなことが穏やかだろう」という。 それからだんだん身の上話に及んで、「今日(こんにち)われわれどもの思うとおりをいえば、正米(しょうまい)を年に二百俵もろうて、親玉(将軍のこと)のお師匠番になって、思うように文明開国の説を吹き込んで、大変革をさしてみたい」と言うと、松木が手を打って「そうだそうだ、これはやってみたい」と言ったのは、松木の功名心もそのときは二百俵の米をもろうて将軍に文明説を吹き込むくらいのことで、当時の洋学者の考えはたいていみな大同小異、一身のために大きなことは考えない。 のちにその松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とかいう実際の国事に当たったのは、実は本人の柄において商売違いであったと思います、と福沢は言っている。

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