「二月堂界隈」と、東大寺境内2023/07/08 07:05

 「私はこの境域のどの一角もすきである。」と、司馬遼太郎は「二月堂界隈」に書いている。 「とくに一ヵ所をあげよといわれれば、二月堂のあたりほどいい界隈はない。立ちどまってながめるというより、そこを通りすぎてゆくときの気分がいい。東域の傾斜に建てられた二月堂は、懸崖造りの桁(けた)や柱にささえられつつ、西方の天にむかって大きく開口している。西風を啖(くら)い、日没の茜雲を見、夜は西天の星を見つめている。/二月堂へは、西のほうからやってきて、大湯屋や食堂(じきどう)のずっしりした建物のそばを通り、若狭井のそばを経、二月堂を左に見つつ、三月堂と四月堂のあいだをぬけて観音院の前につきあたり、やがて谷を降りてゆくという道がすばらしい。」

 「東大寺の境内には、ゆたかな自然がある。/中央に、華厳思想の象徴である毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ、大仏)がしずまっている。一辺約一キロのほぼ正方形の土地に、二月堂、開山堂、三月堂、三昧堂などの堂宇や多くの子院その他の諸施設が点在しており、地形は東方が丘陵になっている。ゆるやかに傾斜してゆき、大路や小径が通じるなかは、自然林、小川、池があり、ふとした芝生のなかに古い礎石ものこされている。日本でこれほど保存のいい境内もすくなく、それらを残しつづけたというところに、この寺の栄光があるといっていい。/東大寺境内は風景が多様で、どの一角も他に類がない。ふつうはその南の一辺からこの寺を見る。南大門は建材の縦横の力学的構造美を壮大に感じさせる。そのむこうに見る大仏殿は、重量を造形化した木造建造物として世界一であろう。」

 「おもしろいのは、西の一辺である。ここは町方に融けている。西の一辺では西大門も中門も礎石しかのこっておらず、転害門(てがいもん)だけが結界の威を保っている。天平の創建以来の建物だが、佐保路(かつての平城京の一条大路)のざわめきに面しているところが、さりげなくていい。戦後のある日、この前を通ると、自転車置場になっていた。いまは。そうではないが。/天平のままといえば正倉院もそうである。建物もそこに収蔵されている宝物も、手つかずの天平以来のものなのだが、明治政府によって寺からひきはなされて皇室の所有になった。」

 『新 街道をゆく「奈良散歩」』では、東大寺の「外護者」が出て来る。 写真家の入江泰吉は、修二会の「十二人目の練行衆」と呼ばれたという。 奈良出身の俳優、八嶋智人の『ファミリーヒストリー』で、東大寺の仕事の補助をする家系で、人のために尽くす、人を楽しませるのだ、とやっていた。

 司馬遼太郎は書く。 「世界じゆうの国々で千年五百年単位の古さの木造建築物が奈良ほど密集して保存されているところはない。奇跡といえるのではないか。」 1300年間、メンテナンスを続けてきた奈良の人たちは、興福寺を大事な場所として有効利用したいと思っていた。 のちに奈良公園として使うのだ。 「たかが飲み屋にゆく途中が、これほど贅沢な景観であるというのは、何に感謝をしていいのだろう。やはり奈良にある多くのすぐれた建造物を、千数百年にわたって守りぬいてきてくれた、このまちの精神というものに敬意をささげるべきではないか。」