生涯で最も発掘調査に没頭した学生時代2023/07/25 07:25

 西岡秀雄は昭和11(1936)年9月、田園調布周辺での遺跡調査の集大成ともいえる論文「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」(『考古学雑誌』26巻5号)を発表する。 田園調布から世田谷区野毛地区にかけての、縄文時代の貝塚や遺物包蔵地、古墳、横穴墓に関する情報が網羅され、現在でも遺跡の存在を知るための極めて重要な記録である。 これによって、西岡の田園調布周辺の遺跡に関する研究は、全国の学界に永く留められることとなった。

 昭和11(1936)年4月、慶應義塾大学本科に進学した西岡は、大学が日吉周辺で相次いで実施した発掘調査に従事する。 最初の本格的調査は、同年7月キャンパス内の工事に伴う弥生時代の竪穴住居の発掘だった。 考古学を重視する間崎万里らの奔走で、大学の研究水準を世界に示す調査とされ、日米学生会議代表団の現場見学や、ハーバード大学創立300周年祝賀行事での、遺物の一部や住居の復元模型の贈呈などが行われた。 西岡は、発掘や現地説明会で語学力を生かして活躍する。 この実績もあってか、翌年6月、西岡は第4回日米学生交流の日本側代表の一人に選抜され、渡米することになる。

 昭和11年10月には、師、間崎万里・松本信広らと矢上谷戸貝塚の巡見に向う途上、土取工事で削平され墳丘断面が露出していた矢上古墳を発見する。 急遽、墳丘の測量と発掘調査が行われ、主体部から竹製の竪櫛が出土して話題となる。

 12月には、白山古墳(川崎市幸区南加瀬、市内最大級の前方後円墳)が温泉施設建設のため削平されるとの情報を知った松本信広の命を受け、西岡は墳丘の測量にあたる。 翌年5月本格的発掘調査が行われ、西岡は墳丘の断面構造の調査や後円部の粘土槨の発掘、白山古墳に隣接する第六天古墳の横穴式石室の調査などに従事した。 この時、小泉信三塾長が第六天古墳の石棺の見える現場を視察している写真が残っている。

 この一年半は、西岡が生涯で最も発掘調査に没頭した時期だったという。 特に弥生時代の竪穴住居は、学生時代最大の研究テーマとなる。

 昭和12(1937)年、日中戦争が勃発し、日本軍が南京を占領して間もない昭和13(1938)年5~7月、慶應義塾大学は中国での考古学調査を実施する。 西岡は、師、松本信広らとともに中支班員として南京・杭州の調査に参加し、戦闘の痕も生々しく時折銃声が聞こえる中、戦闘で荒廃した学術機関の資料の把握・整理や、塼室墓(せんしつぼ)の発掘調査などを行った。 松本も西岡も、中国側が既に高い水準の研究を行っていることを率直に認め、その成果の一部を紹介している。 しかし、軍をはじめ日本政府の支援のもとに、占領地で行われた調査という側面は否定できず、戦争と学術の関係を考えさせる、重い事実ではある。

等々力短信 第1169号は…2023/07/25 07:27

<等々力短信 第1169号 2023(令和5).7.25.>耶馬渓競秀峰 は、7月18日にアップしました。 7月18日をご覧ください。