福沢諭吉と渋沢栄一の共通点2023/07/29 07:02

 福沢諭吉と渋沢栄一については、私も「等々力短信」がハガキ通信だった時代から、こんなことを書いていた。

      等々力短信 103 1978(昭和53).1.15.

 正月休みに渋沢秀雄さんの『明治を耕した話』を読んだ。 父、渋沢栄一伝である。 テレビで時々その温顔を拝する渋沢秀雄さんが、西郷隆盛と薩摩の豚鍋をつつきながら幕府批判をやったり、新撰組の土方歳三と倒幕派の大沢某を召捕りに行ったりした渋沢栄一の実の息子だということは信じられない気がする。

 渋沢栄一は天保11(1840)年に生まれて、昭和6年92歳でなくなった。 秀雄さんは明治25年の生れだから、栄一52歳の時の子で、今年86歳になる。 親子二代の長生きが、遠い幕末の話をつい昨日のことのようにしてしまう。 長生きはそれ自体価値がある。

 満93歳の彫塑家、北村西望さんは37歳の時、建畠大夢、朝倉文夫という二人のライバルを超えたいため「人生長ければ、芸術また長し」と計画的に長生きをめざした。 今でも朝5時起きで制作台に向う身体は骨太、現役漁師並みという。

       等々力短信 第294号 1983(昭和58)年8月5日

              時代を動かした四つの瞳

 渋沢敬三さんの仕事にひかれて、あれこれ考えていると、やはり祖父渋沢栄一のことに、ふれないわけにはいかない。 渋沢栄一の生涯も、波乱万丈の興味あふれるものだ。

 渋沢栄一は、天保11(1840)年、埼玉県深谷の近くの血洗島(ちあらいじま)という所の大きな農家に生れた。 ちょうど幕末動乱の時代で、倒幕をめざし横浜焼打ち計画を建てる過激派に育つ。 その計画が露見して幕吏に追われる身となり、一橋慶喜家に逃げこむ。 ここで持ち前の企画と実務の才能を発揮して、だんだん重用される。 慶喜が将軍になって、三年前の倒幕運動家は、皮肉にも幕臣になってしまう。 慶應3(1867)年慶喜の弟徳川昭武のフランス留学に随行する。 この一行のことは、NHKテレビの大河ドラマ『獅子の時代』で、ご覧になった方も多かろう。 フランス滞在中、幕府が瓦解、幕末の戦乱に巻き込まれずにすむ。 維新後、徳川家が小さくなった静岡藩で、フランスでみてきた株式会社を早速設立するなど経営の才をあらわしていたが、請われて大蔵省に出仕、明治6(1873)年、民間に転じ、第一国立銀行総監役になる。 以後、日本資本主義の基礎をつくる仕事に深くかかわった。 生涯に関係した会社が5百余、非営利事業が6百余、それも名前だけ出したというようなものは、ほとんどなかったという、働きづくめの92年の一生を昭和6(1931)年に終える。

 渋沢栄一で興味ひかれるのは、幕末の7、8年に幕府が欧米各国に派遣した大小6回の使節団のなかで、なぜ渋沢栄一と福沢諭吉だけが、明治をリードするだけの観察、見聞をなしえたかという疑問である。 この問題は、発展途上国のモデルになるという意味でも、研究に値するテーマだと思うが、思いつくまま、二人の共通点をあげれば、一、ともに迷信をからかうなど、子供のころから科学的精神を持っていた。 二、旺盛な好奇心の持ち主である。 三、筆まめな記録者であった。 四、表面にあらわれた現象だけでなく、それを動かしている組織や精神に目を向ける眼力を持っていた。

 福沢諭吉が、蘭学の修業から西洋についての予備知識を持っていたのにくらべ、渋沢栄一には、それがなかった。 わずかに一橋家での行政実務の体験があっただけで、この人本来の探究心、吸収力、洞察力が、いかに強烈であったかは、想像を絶する。