廃仏毀釈と興福寺の数奇な運命2023/07/10 07:04

 司馬遼太郎さんは書く、明治元年の「神仏分離令」で、奈良においてその新政の嵐を正面から受けたのが興福寺だった。 ただ一片の命令で僧たちは春日大社の神職にさせられ、興福寺は廃寺同然になった。 この時期に五重塔はわずか二十五円で売りに出された。 広大な境内や領地は大きく姿を変える。 「僧がいっせいに還俗することによって寺を捨てた以上、寺も仏像も宝物も持主なしで路上にほうりだされたのと同然だつた。軽薄といえばこれほどすさまじいものもないが、一方、明治維新の革命性ということからみれば、興福寺におけるそのことほどはげしいものは他になかった。」

 「その広大な境内も同様だった。/明治四年正月、大乗院とならんで最大の「邸宅」だった一乗院の敷地は、太政官が「官没」し、ここに奈良裁判所を置いた。いまは奈良地方裁判所になっている。/明治五年九月、一山の土塀・諸門などがことごとくこわされて、一空(いっくう)に帰した。もっともすこしは残った。五重塔、三重塔、北円堂、南円堂、大湯屋。/のちに成立する奈良公園のうつくしさは、興福寺を毀(こぼ)つことによって成立したのである。」

 『新 街道をゆく「奈良散歩」』で、高島礼子は旧興福寺がどれだけ広大な面積だったかを、仏教史が専門の西山厚さん(奈良国立博物館名誉館員)に案内された。 奈良ホテルは、旧大乗院跡だが、上流貴族のようなお屋敷で、大乗院庭園が旧興福寺の南端になる。 藤原氏の、兄は都で摂政、関白となり、弟は仏教世界のトップとなった。 「神仏分離令」で、興福寺の公家出身の上層部の僧は、進んで寺を捨て、たやすく春日大社の神官となった。 公家の世の中になったのだから。 興福寺は、経済的基盤がなくなった、国の経営で檀家のない寺だったから、「神仏分離令」で一番強く影響が出た。 下級の僧侶は難しい選択を迫られた。 奈良文化財研究所歴史研究室の吉川聡さんによると、近年の研究で、承仕(事務方)の宗円の日記に、「神仏分離令」の明治元年三月十七日坊さんをやめる「一大事の評議」とあった。

 旧興福寺の西端は、東向商店街。 西山厚さんお勧めの奈良県庁から旧興福寺域の全体を眺望する。 旧興福寺のかつての境内の中央を貫いて、登大路(のぼりおおじ)という大通りがつくられ、周囲が奈良公園となった。

 興福寺は、明治十四年に再興が認可される。 300年ぶりの中金堂再建を2018年に30年に渡る念願で果たした多川俊映元貫主は、創建時と同じように建てて、コンセプトは「天平回帰」だと語っていた。 五重塔もそうで、剛直で、力強さがある、と。