慶應義塾大学での学び、「西岡人類学研究所」始動2023/07/24 07:04

 西岡秀雄は昭和8(1933)年4月、慶應義塾大学予科に入学する。 東南アジア民俗学の松本信弘、考古学の柴田常恵(じょうえ)などの師や、後に考古学者となる清水潤三(後に慶應義塾大学の考古学教授となる。「三内丸山遺跡」に行った時、その名を聞いたことは、いずれ書く予定)などの友人と出会う。 特に松本は、戦時中の中支調査で行動を共にし、出征後や戦後も西岡の研究を支援する、生涯の師となる。 また間崎の紹介により、医学部の望月周三郎による解剖学講義の聴講も許される。 念願だった大山柏の授業を本格的に受けたのは、予科から本科に上がった昭和11(1936)年度のようだ。

 西岡の解剖学のノートに描かれた精緻な図面や、大山柏の史前学の教科書『史前学講義要録』への緻密な書き込みからは、新知識を得ることへの情熱が伝わって来るという。 こうして西岡の人類学・考古学の知見は、飛躍的に深まっていく。

 この頃、西岡は研究スペースだった自宅の機械道具室に、「西岡人類学研究所」の看板を掲げる。 ここは考古学を研究する学生の拠点となった。 地元に住む後輩たちが、宝莱山古墳の主体部を発掘した際には、西岡は出土遺物を保管し、出土状況の図面を作成するなどの支援を行った。 後に考古学者となる江坂輝弥も、研究所所蔵の土器を見学して論文を書いている。

 昭和10(1935)年冬、東京帝室博物館の後藤守一(しゅいち)は、東京府の史跡名勝天然記念物調査の一環で府内の古墳を調査した際、西岡から資料提供などの協力を受ける。 後藤は西岡の仕事を評価し、報告書の古墳の一部を、西岡の番号に従って「西岡第〇墳」と呼んだ。 現在の遺跡名称、「西岡〇号墳」の起源である。

西岡は昭和8(1933)年、東京人類学会に入会する。 昭和9(1934)年5月には脇水鉄五郎を介して、千代田区「お茶の水横穴群」の発掘現場を、調査を主導する上田三平の案内で見学し、考古学・人類学の雑誌『ドルメン』に見学記を寄せる。 古墳時代末期の墓とする上田の説に対し、西岡は田園調布での発掘経験から、近世の物置の可能性も考慮した慎重な見解を示した。 後にこの遺跡は近世の地下式麹室(こうじむろ)と判明するので、西岡の観察の確かさが伺えるという。

昭和10(1935)年7月、郡山郷土国史研究会から人類学・考古学の講演依頼を受けた西岡は、福島県中通り南部各地の遺跡を訪ね、阿武隈川西岸を北上する「大和民族」により、アイヌ民族が東側の阿武隈高地に追いつめられたとの説を発表する。 アイヌ民族を日本列島の先住民とする学説に従った見解だが、文献、地名や気象データも分析し、後の研究法の萌芽がみられる。 さらに旅行中多数の土器を見学し、先史時代の気候の手がかりとして、土器の底に付いた木の葉の痕(木葉痕)の拓本約25点を採取した。

昭和11(1936)年3月、西岡は東京人類学会・日本民族学会第二回連合大会で、これらの資料のうち弥生土器の木葉痕に、寒冷地を好むトチノキがあることを主な根拠として、弥生時代は寒冷だったと主張する。 後の気候七百年周期説の原点となるものだった。

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