『暦のしずく』と『人よ、花よ、』、楠木正成はなぜ死地へ ― 2024/08/01 07:07
ここで、朝日新聞朝刊土曜 beの連載小説、沢木耕太郎さんの『暦のしずく』と、2022年8月から今年3月まで朝日新聞朝刊に連載された今村翔吾さんの『人よ、花よ、』が、交叉することになった。 この日記には2023年2月14日から28日まで、楠木正成の活躍と時代状況、楠木多聞丸正行との「桜井の別れ」までを詳しく書いた。 それは、2023年1月28日の『暦のしずく』16(第一章 釆女ヶ原 十二)の回の、影響があったからかもしれない。
里見樹一郎はこの日、釆女ヶ原で初めて講釈というものを聞き、このように心をゆさぶられるものとは知らなかった、と言う、 馬場文耕はこの年、『太平記』を一日一巻の割合で読み、この日は十六巻まで来ていた。 前段の壱の席で、まず『太平記』の内容を流れに沿って話し、中入りを挟んで、後段の弐の席で、重要と思われる一節を順に読み聞かせていく。 そして、その一節に対して、日蓮宗の僧侶である大運院陽翁が記したとされる『太平記評判秘伝理尽鈔』を開き、陽翁の見方を披露する。 さらに文耕は、登場人物の心の動きに重きを置いて、自らの見解を述べるのだった。
里見は、楠木正成について通り一遍のことしか知らず、朝廷に忠義を尽くした武将くらいの認識しかなかった。 そもそも、どうして死すことを予見しながら兵庫に向かったのか、などという問いが存在することさえ知らなかった、と言う。 文耕の講釈は、こうなる。 多くの『太平記』読みは、単に後醍醐帝への忠の心によるものとする。 しかし、『理尽鈔』の作者は、正成にとって死することも戦略だったと述べ、『太平記』にはないけれど、正成は兵庫に赴く前に、腹心の家来たちに次のように語ったと記す。 もし足利尊氏を滅ぼせば、新田義貞の世になるだろう。 新田は、最後には帝をないがしろにして、源頼朝のように武家を中心とした政権を作るはずだ。 これを朝廷側が取り戻すのは難しい。 一方、尊氏が新田を滅ぼせば、足利の世になり、やはり武家の政権になる。 しかし、尊氏はあまり賢いとは思えないので、すぐに足利の世は終わり、朝廷側の勢力に取って代わられることになるだろう。 ただ、この正成が生きている限り、必ず尊氏は破れて死ぬことになる。 それは帝の世を招来するためにならない。 だから、と『理尽鈔』の作者は言うのだ。 楠木正成は、自らを滅ぼすために火中に飛び込んだのだと。
文耕は、自らの考えを述べていく。 正成の死は、忠のためでもなく、戦略のためでもなかった。 後醍醐帝の行いを見るにつけ、思慮に欠けることが多くあり、いま足利尊氏を滅ぼしたとしても、新田義貞が天下を奪うことになるだけだ。 正成は忠を尽くすと心に決めた後醍醐帝に対して、実は深く絶望していたのだ。 鎌倉の北条の手から実権を奪い取り、ようやく帝による親政が行なわれることになったものの、少しも世の中は良くならない。 そして、ふたたび、足利尊氏によって武家の政権が打ち立てられようとしている。 いまは朝廷側についている新田義貞もただの善意から尊氏と戦っているわけではない。 誰が勝ち残っても、太平の世が訪れることはないだろう。 正成には、戦う目的が見えなくなっていたのだ、と。
里見樹一郎は文耕に、それにしてもなぜ楠木正成は生きる道を選ばなかったのか、どうして帝の命に背こうとしなかったのか、いや、どうして自ら帝になろうとしなかったのか、と訊く。 文耕は驚き、自ら帝になるなどという考えは、当時の武士の誰もが持ち得ないものだった。 さらに徳川の世になっても、朝廷から下される官位以上のものを欲しがった者は現れなかった。 それを、この若い浪人者は、涼しい顔で、楠木正成は自ら帝になろうとしなかったのかと言う。 さらに、「海の向こうの国では、帝が天の意志に背いていると判断されれば、取って代わる者が現われます。天とは、民の声を聞き届けて下さる方です。民の声とは、百姓の声、町人の声、山の民の声、海の民の声です。帝は天でなく、帝は帝に過ぎません。天は必ず民の声を聞き届けて下さいます。もし、帝が民の声に応えてくださらなければ、民は帝に従わずともよいのです。」と言う。 だが、この国(日本)では、個々の帝と敵対する者は現れても、朝廷そのものを打倒するという者は現れなかった。
文耕は、里見の言う天が、この国における天とは、どことなく異なっているように感じられてならなかった……。
深川芸者お六と「怪動」、江戸に戻った文耕の暮らし ― 2024/08/02 07:02
馬場文耕と里見樹一郎が酒を酌み交わして、いろいろな話をした翌朝、文耕のもとに、深川芸者のお六が現れた。 昨晩、「怪動(けいどう)」の手が入り、女たちが捕まってしまったのだという。 江戸で公に許された遊里は吉原だけだったが、各所に非公認の遊里が自然発生的に生まれた。 深川を筆頭に、浅草、谷中、根津、音羽、赤坂、芝などで、岡場所と呼ばれた。 江戸も中期の宝暦の頃になると、諸事簡単で安価な岡場所が隆盛を極めるようになる。 町奉行所は、公許の吉原からの要請で、何年かに一度は、岡場所に対して大規模な手入れをせざるをえなかった。 これが「怪動」である。
捕えられた娼妓たちは、吉原に送られる。 吉原では、その娼妓たちを、妓楼の主が品定めをした上で入札し、下は数両から、上は百両近い大金を払って、下げ渡してもらう。 妓楼の主は、その娼妓たちを、奴(やっこ)女郎と呼んで最大三年にわたって無給で働かせることができた。
深川では、仲町だけで十七人が捕まってしまったが、お六は父親の命日なので、無事だったという。 その父親惣助は、文耕の恩人だった。 旅を切り上げ江戸に舞い戻ったとき、文耕は無一文になっていた。 大小の刀は売り払い、九州から帰る途中の上方で講釈の真似事を習い覚え、それを辻々で語ることでわずかな路銀を稼いでいただけだ。 江戸に入ってからは、死んだ父親のかつての俳諧仲間の口入屋を頼り、ほとんど力仕事も同然の日傭の仕事を回してもらい、裏長屋で暮らすようになった。 往来の荒物屋の店先で貸本屋を見かけ、本が読みたくなって、声をかけると通行人の文耕のどこを見込んだのか、井原西鶴の『武家義理物語』を貸してくれることになった。 台帳に、町名、長屋名、名を記すと、「見事な手でいらっしゃる」と。 十日戻しで三カ月ほど付き合うと、その貸本屋惣助が文耕に筆耕の仕事を依頼してくるようになった。 版木に彫って刷る刊本ではなく、筆写を繰り返して本にする写本を出すため、貸本屋の中には筆耕者を必要とする者が少なくなかったのだ。 文耕は、その仕事を得て、日傭の力仕事から解放されることになった。
惣助はまた、文耕が講釈をしながら旅を続けていたと知ると、自分が出入りしている商家の主に声を掛け、店を仕舞った後にその店の中で講釈する、夜講の場を見つけてくれるようになった。 その機会はさほど多くはなかったが、筆耕の仕事と併せれば、なんとか日々の暮らしが立つくらいの稼ぎを得ることができるようになったのだ。 それもこれも、すべてお六の父の惣助のおかげだった。
お六と文耕、吉原の俵屋小三郎の縁 ― 2024/08/03 07:06
馬場文耕が出会った当時、惣助はもう労咳(ろうがい)にかかっており、やがて重い荷を背負って顧客の所を回ることができなくなった。 そして、一年ほどすると、寝込んでしまった。 それまで娘のお六は、他の町家の娘と同じように三味線や長唄などを習っていたが、惣助が寝込むと稽古事をすっぱりやめ、看病に専心するようになった。 文耕は、惣助が他の貸本屋や書肆に顔をつないでおいてくれたおかげで、筆耕の仕事に困ることはなかった。 だが他人を助ける余力はなく、働けなくなった惣助の借財がしだいに増していくのを黙って見ているしかできないのが情けなかった。
お六が十七歳になったとき、惣助の余命がいくばくもないと医師に告げられた。 すると、お六は、長唄の師匠に、稽古のために出入りしている深川仲町の娼楼を紹介してもらい、ひとりで訪ねた。 そして、借金の総額である三十両で身を売ることを自ら申し出た。 ただし、父が息を引き取るまで看病させてほしい。 葬儀が終わったら、翌日からお勤めをさせていただきますと付け加えた。
楼主は、小娘がすべての物事をひとりで進めようとしているその健気な様を見て、これは面白いと判断した。 しかも、長唄の筋がいいことは師匠の折り紙付きだし、器量もいい、お六の申し出を受け入れた。
深川仲町で芸者になったお六は、文耕と里見が出会った翌日に文耕を訪ねてくる宝暦七年まで、「怪動」の手入れで二度捕まっていた。 最初のときは、江戸に戻ってきてまだ日の浅かった文耕には、何もしてやることができなかった。 そのためお六は、二十四カ月、丸二年というもの、吉原の京町にある長崎屋という妓楼で遊女として荒い勤めをさせられることになった。 だが、そこから深川に戻って一年半後に、また捕まってしまったときは、文耕がたまたま知り合うことになった京町の楼主、俵屋小三郎に頼んで落札してもらい、遊女ではなく芸者として扱ってもらうことができていた。
俵屋小三郎は、五年前に文耕が富沢町の常磐津の師匠宅で夜講をするのを聞き、文耕の十蔵長屋を訪ねて来た。 俵屋は兄が死んでやむなく継いだ小見世で、大見世を目指して高嶺の花の太夫など必要としない。 だが、流行らせなければならない、そのためには人気の遊女を生み出す必要がある。 その遊女を見たいと思わせ、できれば遊びたいと思わせるようにしなくてはならない。 そういう講釈をつくってもらえないかという頼みだった。 文耕は、講釈というものを妓楼を喧伝するための手段とすることなどできない、と断った。
俵屋は、たびたび立ち寄り、話をし、帰る時に決まって、まだ気は変りませんか、と訊ねた。 変らない、と答えると、嬉しそうに高笑いしながら部屋を出ていくのだ。 そして四年前、お六が二度目の「怪動」で捕まった。 文耕は吉原の俵屋に赴き、お六を引き取ってもらい、扱いを手加減してもらえないか、と頼んだ。 小三郎は、余計なことはいっさい言わず、俵屋に下げ渡してもらえるよう努めてみると約した。 交換条件として、お六の人気を高めるような話をしてほしいと頼む。 それはできない、と断ったが、小三郎はせめて読物にお六のことを書いてくれないかという。 もし書いてくれるなら、お六を引き取り、遊女としてではなく、芸者として扱うことを約束すると言った。
十日後、お六が正式に俵屋に下げ渡されたとの連絡を受けると、文耕はわずか七日でひとつの読物を書き上げた。 三人の深川芸者についての話、題して『富賀川堤三本桜』。 お六については、前句付の会での鮮やかな振る舞いを克明に描き、「怪動」で捕まって、いまは吉原の俵屋にいると書き添えた。 貸本屋に出回る写本が主だったが、じわじわと評判になり、そこからお六の人気が高くなっていった。 そして美登里と名を変えたお六目当ての客が、俵屋に押しかけるようになった。
文耕の夜講『深川吉原つなぐ糸は紫』、その前半 ― 2024/08/04 07:16
文耕は匿名で、『富賀川堤三本桜』を新乗物町にある藤兵衛と藤吉兄弟の貸本屋から出した。 惣助に紹介されて、以前から筆耕の仕事を廻してもらっていた店だった。 以来、二人、特に藤吉は、文耕に浮世草子や談義本などの読物を書くことを強く勧めるようになっていた。 惣助に講釈の場をみつけてもらったとき、講釈師としての名前を、筆耕屋にひっかけて文耕とつけた。 読物を出すことになり、どこの馬の骨ともわからない筆耕屋という自虐の意味を込めて、馬文耕(ばぶんこう)と名乗ることにした。 釆女ヶ原の見世物小屋で定期的に講釈をするようになったとき、もっともらしい姓をつけたほうがいいと藤乃屋の市兵衛に勧められ、馬場文耕と名乗るようになった。 釆女ヶ原には、ちょうど馬場があったからだ。
馬文耕という名前を出し、気質物(かたぎもの)としての『世間御旗本容気(かたぎ)』をはじめとして、先代将軍吉宗と幕閣を中心とした人間模様『近代公実厳秘録』などを書いた。
お六に「怪動」で捕まった妹分の小糸のことを頼まれた文耕は、吉原の俵屋に赴き、小三郎にそのことを頼んだ。 十日後、十蔵長屋に来た小三郎は、小糸を無事に下げ渡してもらえたこと、榑正町(くれまさちょう)の井筒屋という小間物屋を借り夜講の手筈を整えたので、講釈を頼むという。 小糸は、お六が美登里になったように、芸者むら咲となるそうだ。 文耕は、小糸がお六と一緒に富岡八幡宮に参り、境内の鳥屋の小鳥を一両で逃がした話や、手習いを教えていた子供が堀に落ちて大工に助けられたことなどから、一つの作り話『深川吉原つなぐ糸は紫』を拵えた。
店と住まいの座敷をぶち抜いた講釈場には、客がぎっしり詰め掛け、百人近くいるようだ。 里見樹一郎の姿もあった。 薬種問屋の手代浩吉が、暮れの掛取りに行き、三十二両の大金を持って油堀に差しかかると、老婆が「助けて、助けて!」と叫び、幼い子が溺れている。 浩吉は、下帯ひとつになると、胴巻を着物で隠すようにして、近くの男に頼み、飛び込んで男の子のところまで抜き手で進み、腕をつかむと、男の子は力を抜き、浮き身の姿勢を取るようにしたので、一瞬、この子は泳げるのではないかと思ったが、河岸に腹這いになったひとりの男が手を差し伸べ、子供を助けることができた。 安心すると、急に真冬の川の水が氷のように肌に突き刺さってきた。 町の木戸番らしい老人が掻巻でくるんでくれた。 胴巻の場所まで、人垣をかき分け、走った。 頼んでおいた男の姿はなく、草履の上に小袖はあるが、帯を解いて、襦袢を叩いたが、胴巻がない。 「ああーっ!」と悲鳴を上げる。 取り囲んだひとりが、その男なら、婆さんと男の子と一緒にあっちに向かった、と富岡八幡宮の方を指さした。 言われて気がつくと、いつの間にか、助けを求めていた老婆も、男の子もいなくなっている。 そして、あの男の子が、実は泳げるのではないかという気がしたことを思い出して、もう一度悲鳴を上げてしまった。
狂ったように三人を捜し求めた。 三人は影も形もなく消えていた。 いまになれば、あの三人がぐるだったのだとわかる。 愚かな自分はその企(たくら)みに引っ掛かり、大事な大事な金を盗まれてしまった。 三十二両もの大金だ、もう死んでお詫びするしかないと、浩吉は思い詰めた。 そのとき、死ぬ前にやっておきたいことはないか、思い残すことはないか、自分の心をのぞき込むようにして考えた。 ひとりの女の顔が浮かんできた。
以前、一度だけ薬種問屋の主人に深川仲町の料理茶屋に連れていってもらった。 番頭の暖簾分けの祝いの席だった。 何人かの芸者の唄と踊りのなかで、地唄の「狐会(こんかい)」をうたった芸者のことが忘れられなくなった。 浩吉が慣れない酒に酔って、茶屋の座敷に寝かされていて、枕元で団扇を使ってやさしく扇いでいてくれたのが、「狐会」の芸者小糸だった。 死ぬ前に、あの小糸という芸者に会いたい、そしてもう一度だけあの唄を聞かせてもらいたい、と思った。 浩吉は、仲町の料理茶屋に行き、小糸を呼んでもらいたいと頼んだ。 一目だけでもという必死さにほだされた茶屋のおかみが、小糸に事情を伝えた。 座敷をお六姐さんにまかせて、付け替えてもらった小糸は、浩吉から一部始終を聞き、「狐会」をうたった。 耳を傾けていたが、最後の「こがれ焦がるる憂き思ひ」に至ると、浩吉の眼から涙が溢れ出た。
唄い終え、三味線と撥を畳の上に置いた小糸が、静かに頭を下げた。 「唄わせていただき、ありがとうございました」
『深川吉原つなぐ糸は紫』、その後半 ― 2024/08/05 07:10
浩吉は拳で涙を拭い、無理に笑みをつくって言った。 「これでもう、思い残すことはありません」 そして、この店の支払いをする持ち合わせはないが、奉公している店には給金の預かりがあるので、迷惑だがあとで取りに行ってもらえないか、と。 小糸は、それまでと異なる強い口調で言った。 「お待ちください」 あなたが義侠心から小さい子供を救おうとなさったことは間違いではなかった。 まっとうすぎるくらいまっとうなことをなさっただけだ。 その尊いお気持は裏切られてしまったが、ご自分が死ぬことはなりません。 さらに続けて、「あたしはしばらくここを離れますが、必ず戻ってまいります。どうか、小糸を信じてそれまでおまちください」
一刻(いっとき)が過ぎ、やがて二刻になろうかという頃、小糸が座敷に戻ってきた。 そして言った。 あなたは、今日の朝と夕、二度にわたって富岡八幡宮にお参りをなさったという。 善行をなさったのに難儀な目に遭っているのを、深川の八幡様がお見過ごしになるはずがない。 あらためて、お参りをして、「八幡みくじ」を引くと、「失物 近し」とあった。 そこで本殿の周りを捜して、三まわり目に木の根元に、細長いものが見えた。 しゃがんで、よく見ると胴巻、中になんと三十二両の金が入っていた。 ああ、ありがたや、八幡様が取り返してくれたのだと、もういちど手を合わせ、急いで戻ってきた、と。
そして、小糸は、浩吉にまだ間に合うから、急いでお店に戻りなさい、という。 帰り道の途中で落としてしまい、足を棒にして捜したら、神様の御加護でようよう見つけることができましたということにすれば、許してもらえるから、と。
翌朝、小糸がお六と暮している仲町の家に、浩吉を伴って薬種問屋の主人が訪ねてきた。 昨夜は、手前の奉公人が大変なご迷惑をおかけして、あなたを巻き込んでしまったことを深くお詫びする。 大切な奉公人を失わなくて済んだのは、あなたのおかげと、厚くお礼を申し上げる。 浩吉を問い詰めて、すぐに、あなたがどうにかして三十二両の金を工面してくださったことがわかった。 「いえ、深川の八幡様が…」 浩吉は動転して気がつかなかったようだが、仲町から富岡八幡宮へ行って戻るのに、二刻はあまりにもかかりすぎている、工面するのに手間がかかったに相違ありますまい。 懐から袱紗に包んだ金を取り出し、お返しするのでお納めくださいと言った。 小糸も、すべてはお見通しなのだと悟り、素直に受け取ることにした。 だが、三十五両もの金が入っていた。 そのようなことはないと思いますが、万一、高利の金を借りたというようなことなら、その利息に。 そうでなかったら、お立て替えくださった料理茶屋への支払いにお充てください。 小糸は考えていたようだったが、素直に受け取るようにしたらしく、頭を下げて、「お心遣い、ありがとうございます」と言った。
薬種問屋の主従二人が帰ると、小糸は身なりを整え、深川から舟と駕籠を乗り継いで、吉原に向かった。 大門の前で駕籠を降り、吉原会所で女が入るときの通行用の切手を出してもらい、仲の町の大通りを京町まで歩き、一丁目の角を曲がって妓楼の俵屋に向かった。
小糸は、内所に上げられると、楼主の小三郎に懐から袱紗に包んだ金を出し、押しやった。 「ありがたいことに、このお金は不要になりました」 「それはよかった」 俵屋が金をあらため、「少し多いが」 「利子ということで」 俵屋は笑いながら、「一晩で一割も利を乗せる賭場の高利貸でもあるまいし、そんな金を受け取るいわれはありません」
実は、前の晩、小糸は料理茶屋を出ると、すぐ吉原に向かったのだ。 舟と駕籠を急がせて吉原に行き、俵屋で会った小三郎に事情を話した。 来年の三月には深川の年季が明けるので、四月からはお勤めができます。 前金としてぜひ三十二両をお貸し与えくださいと頼んだ、人ひとりの命を救うと思って、と。 俵屋は、その小糸の心意気に感じ入り、証文もいっさい取ることなしに三十二両を用立てたのだ。
俵屋は三十二両だけ取り分け、残りの三両を小糸の方に押し戻して言った。 「では、この話はいっさいなかったことにしましょう」 そして、続けた。 「浩吉さんとやらといい、小糸さんといい、義を見てせざるは勇なきなり、を地でいくようなことをなさった。昨夜、話を聞いたときにはどうなることやらと心配していたが、すべて丸く収まったようで、なによりです」 すると、小糸が言った。 「もし、俵屋さんが何も言わずに三十二両のお金を用立ててくださらなければ、浩吉さんの命はどうなっていたかわかりません。その恩義にはお応えしなくてはなりません。来たる三月に深川の年季が明けたら、四月からぜひここでお勤めをさせていただきたいと存じます」 俵屋はその一本筋の通った心意気を多とし、小糸にむら咲という源氏名を与え、廓芸者として一年だけ見世に出てもらうことにした。
文耕は、最後に「題して、深川吉原つなぐ糸は紫。これまで」と言い、席を立とうとしたが、思い出したように付け加えた。
――小糸は四月から吉原に移ることになっていたが、先だっての怪動で町奉行所の同心に捕まってしまった。 それを知った俵屋は、八十両という大枚をはたいて下げ渡しを受け、二人でかわした暮の約束を守ることにした。 そのため、むら咲と名前を替えた小糸は、この三月から俵屋に廓芸者としてすでに出ている。
講釈を聞いた客たちは、みな興奮していて、小糸の話で持ちきり、さっそく明日吉原に行ってみようというのもいる。 三月中旬になって、また釆女ヶ原で講釈することになった初日、入り口で世話役の市兵衛が「大変なことになっていましてね」と、四半時前から小屋の中は満席の盛況だ、と言った。 翌日、十蔵長屋を訪ねてきた俵屋は、あれ以来、小糸、いや、むら咲の顔がみたい、会いたい、唄を聞きたいという客が引きも切らず、そのおかげで、俵屋の遊女でお茶を挽く者もなくなり、むら咲下げ渡しに供出した八十両も、わずかこの半月足らずで楽に儲けさせてもらうことができた、と笑う。 びっくりするじゃありませんか、あの講釈の夜から四、五日するかしないかのうちに、御府内の町々はもとより、四宿の外にまで小糸、むら咲の名は知られるようになっていたそうで、江戸っ子の話好き噂好きは充分すぎるほど頭に入れているつもりでしたが、これほどとは思っていませんでした、と。
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