昭和天皇と母皇太后節子の確執 ― 2024/12/30 07:26
原武史さんの『拝謁記』「読みどころ」(6)(8)、皇太后節子(さだこ)、他の皇族との関係の問題である。 まず昭和天皇の母である皇太后節子。 1921(大正10)年皇太子裕仁が訪欧し、大正天皇の体調悪化に伴い、11月に摂政になったが、裕仁が英国の王室に影響され、祭祀をおろそかにすることに不安をいだき、女官制度の改革や宮中祭祀をめぐって皇后と裕仁の間に確執が生じるようになる。 1926年12月の大正天皇死去で、皇太后となり、現在赤坂御用地内の仙洞御所が建っているところにあった大宮御所に住み、「大宮様」と呼ばれた。 皇太后と天皇との確執は敗戦までずっと続き、皇太后は空襲が激しくなってもなお「かちいくさ」を祈り続けるなど、戦勝に固執した。 戦地から帰還した軍人をしばしば大宮御所に呼び寄せ、激励の言葉をかけていた。 皇太后を恐れていた天皇は、その意向に逆らうことができなかった。 「おたゝ様(お母様)はそんなこといつては悪いが、所謂虫の居所で同じことについて違った意見を仰せになることがある。其点は困るが」(1950(昭和25)年1月6日)
戦争が終わると、「時流に阿ねる御性質」が一転して、合法化された日本共産党に対する同情となって表れていると天皇は考えていた。 田島は天皇に対して、「大宮様は(中略)進歩的に考へらるることを仰せになることがおすきと存じます」(1949(昭和24)年11月8日)と私見を述べ、対策としてマルクス主義を批判する経済学者の小泉信三に依頼し、「共産党の駄目のことを御進講願ふことも考へられます」(同)と進言している。
(25日の<小人閑居日記に「昭和23(1948)年5月1日に、芦田均首相が小泉信三さんの家に来て、宮内庁長官になってほしいと言った」と書いていた。田島道治が芦田均首相に任命されて宮内府長官になったのは昭和23(1948)年6月。翌昭和24(1949)年6月宮内府は宮内庁と改称され、田島は宮内庁長官となる。同年10月15日芦田均内閣は昭和電工事件で総辞職し、第二次吉田茂内閣となる。なお、高橋誠一郎さんが文部大臣だったのは第一次吉田茂内閣の昭和22(1947)年1月11日~5月24日。高橋誠一郎さん〔昔、書いた福沢12〕<小人閑居日記 2013.11.27.> 吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕<小人閑居日記 2013.11.28.>参照)
1951(昭和26)年5月17日に急逝し、「貞明皇后」と追号されるが、『拝謁記』では皇太后に対する言及が非常に多くなっていて、天皇が敗戦後もなお皇太后を恐れていたことが分かる。
亡くなったあとも、「私はおたゝ様とは意見が時々違ひ、親孝行せぬといふやうな事にもあるかと思ふが、同居が長ければもつと意見が一致するのかも知れぬが……」(1953(昭和28)年4月10日)
原武史さんは、皇太后遺書の謎を二つ挙げている。 皇太后が死去して約一カ月後、大宮御所から遺書が発見された。 大正天皇が亡くなる約二カ月前の1926(大正15)年10月22日に皇后として記したものだった。 高松宮が日記に概要を記しているだけで、公表はされていない。 『拝謁記』の二人のやりとりから、一つは、秩父宮や澄宮(後の三笠宮)に「何か由緒ある家宝となるやうなもの」を渡したい、というもの。 もし「家宝」が「三種の神器」を指していれば、草薙剣の分身と八尺瓊勾玉(いわゆる剣璽)で、明治の皇室典範では新天皇が継承することになっていたので、皇太子裕仁が天皇になれないことを意味していた。 もう一つ、皇后は1924(大正13)年筧克彦が提唱していた「神ながらの道」に関する講義を八回にわたって聴き、大きな影響を受けた。 その時書いたものを秩父宮に渡すように遺書に書いてあった。 原武史さんは、秩父宮に天皇になってもらいたいという皇太后の希望のあらわれのように見える、とする。
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