「東北の義経伝説と文学・芸能」2012/10/10 00:40

 日吉キャンパス公開講座「日本ってなんだろう」9月29日の二時限目は、佐 谷眞木人(さやまきと)恵泉女学園大学教授の「東北の義経伝説と文学・芸能」。  佐谷教授は、二枚の地図をプリントしてくれた。 義経記関係地図と「おく のほそ道」地図。 松尾芭蕉の『おくのほそ道』の旅は、源義経の都から平泉 への北国落ちを、逆コースで辿りなおし、義経の遺跡を尋ねながら進んで行っ たものだった。 とくに平泉から敦賀までは、ピタッと重なる。 辺鄙な所を 行く、大変な旅行だったろうが、五百年前、義経の通った跡を辿ってみたいと いう熱い思いが感じられる。 その旅が可能だったのは、江戸時代という時代 とかかわる。 道路と治安が整備され、旅行がし易い時代になった。 平和、 元禄、商業の発達、参勤交代、人の行き来、旅籠。

 源義経に関する伝説で、東北地方に関係のあるのは、後半生、兄頼朝と不和 になって後の奥州への逃避行と衣川合戦での最期を描くものが中心で、文学作 品だけでなく、さまざまな芸能にも作品化されている。 とくに仙台藩を中心 とした地域では、近世初期から「奥浄瑠璃」(仙台浄瑠璃、御国浄瑠璃とも)と 呼ばれる芸能が盛んだった。 今は伝承が絶えているが、本は残っている(約 八十曲)。 そこには『尼公(にこう、あまぎみ)物語』『八嶋物語』『義経東下 り物語』などの義経を主人公にしたものが含まれている。

 たとえば『尼公物語』。 奥州平泉へ落ち延びる山伏姿の義経主従は、丸山に 一夜の宿を乞う。 そこは佐藤庄司の妻の尼公が住む館だった。 義経の忠臣、 佐藤継信、忠信兄弟の母で、息子二人が義経に従って出立した折の様子を語る。  それを聞いた弁慶は、継信が屋島合戦で義経を守るため能登守教経に射られた 様子を話す。 佐藤兄弟の遺児、鶴若丸と亀若丸は、継信の死を知って嘆く。  義経はまた、都での忠信の死を語って、尼公に二人の形見の品を渡す。 義経 は二人の遺児の烏帽子親となり、鶴若は佐藤吉信、亀若は信夫義忠と名乗らせ る。