「書く」のは、相手に「届かせたい」から2012/10/29 06:32

 大学の講義だから、「クリシェ」や「定型を身体化する」という生硬な言葉や、 フランスの聞いたこともない学者の言語学の議論が出て来るのは、仕方がない のだろう。 私のような読者は、そこはほどほどに付き合い、わかりやすいと ころを丁寧に読んで、内田樹さんの伝えたかったことを、読み取るしかない。  情熱を持って語られているので、その言いたいところは、わかったような気持 になる。

 内田さんは言う。 「クリエイティブ・ライティング」は、どうやって自分 たちのイキイキとした思いや感覚をみずみずしい言葉に託すかを、研究する授 業だ。 何とかして相手に思いを伝えようとすれば、「情理を尽くして語る」こ とになる。 「書く」ことの本質は、「読み手に対する敬意」に帰着する。 「届 く言葉」には発信者の「届かせたい」という切迫がある。

 こういうのを読んでいて、私は福沢諭吉が、いつも「平明達意」の文章を心 がけ、実践したことを思い出していた。 「読者は旦那にして、著者は従者な り」と、言っている文がある。 明治11(1878)年「著述の説」再刊民間雑誌 第103号(私はこれを伊藤正雄さんの『福沢諭吉入門』(毎日新聞社)で知っ た)。 「著述とは、何事にても、そのことにつきて知見ひろき者が、その所知 知見を書に著はし述べて、知見狭き者へ告げ知らすことなれば、毫(ごう)も みづからためにする(自分の得をする)にあらず。人のためにするものなり。 すでに人のためにするとあれば、人は主にして、我は客なり。あるいは人は旦 那にして、我は従者といふも可なり。ゆゑに著述の要は、読者の心事を推量し、 その知見の深浅を測り、その智愚のありさまを察して、まさにその人のために 便ならんことをつとむるにあり。」

 『街場の文体論』にも、福沢が登場する。 275頁、夏目漱石と福沢諭吉の 書き物に「学問的な能力を自分一人の立身出世に用いる人間に対する手厳しい 批判」が横溢している、というのだ。 日本の人文科学研究が過去に活性化し た二度の内の一つ、幕末から明治初期(もう一つは1945年の敗戦後)、海外の 制度文物を早急に取り入れていかなければ植民地化されるという危機感があっ た。 大量の外国語の文献が翻訳された。 あの時期に、英語やフランス語を 習得した人たちが、その特殊能力を個人的才能の評価を高めること、自分の利 益のためにだけ使ったら、その後の日本の近代化は果たせなかった、というの である。

 そうした福沢の考え方は、上に引いた、著述は「人のためにするものなり。」 にもあるし、10月14日のこの日記「福沢と漱石の「苦と楽」」に書いたロバー ト・キャンベルさんが引用した『福翁自伝』にも出て来た。